願い

熊本地震で被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。


東日本大震災のときには九州新幹線のCMに私は大変救われました。
よし、ここからまた頑張って、新しい文化を築き上げる気持ちで頑張ろう! と、ひとつになること、手を振ってくれていたことが励ましにおもえて、当時から何度も繰り返して観ています。
車の中でもよく聴いていて、感謝の気持ちをいつでも思い返させてくれています。
本当に凄く励ましてくれたのです、ありがとうございます。


夜になると怖くて泣いてしまうお子さんもいるとおもいます。
生活が落ち着く目途を持つまでの不安はたまらないものがあるとおもいます。
少しでも早く、被災されている一人一人の皆さまが少しでも過ごしやすい日々となっていってくれることを願っています。

家族の選択

前回分娩大量出血は今回も危険にくださったsuzanさん、ゆきなさん、プチトマトさんのご意見より。
suzanさん、ゆきなさん、プチトマトさん、ありがとうございます。

ゆきなさんの義妹さんのお話から続いています。

まず、ゆきなさんは

娘が助産院で出産することを誇らしげに話す義母に私は、「子供の命より大切なものなんてないですよね」と言いました。<<(ゆきなさんのご意見全文
とお話しされていること、義母に言うということ、これは凄い勇気が要ることだったとおもっています。
でも、ゆきなさんの伝えたいことはその真意を理解していただくこともなく、多分、すごく邪険な扱いをされたのだろうとおもいます。
というのも、義母さんからの

返ってきた言葉は「あの子が決めたことなのよ、私はちゃんとリスクも話したの」でした。

がすべてを物語っているように私にはおもえるから。
義妹さん(と義母さん)が出産前に考えを改めるための情報探しをされるとはおもえません。
多分、自分の背中を押してくれるような、都合の良い情報にしか目を向けないでしょうから(私の経験談でもある)、ゆきなさんのようなご意見は「余計なお世話」というカテゴリーに入れられてしまっておしまいだとおもいます。
友達という関係でさえ、相手が自分の選択を否定しているだけだという感情しか持てないのか、「なんで人から指図されなきゃいけないの?」で終わらせてしまう方が多いですし。

自分の娘や孫の命を、「あの子が決めたこと」で済ませられるなんて…。

まったくね。
本当にその通り。私自身、自分を思い出してもとっても恥ずかしいことだとおもいますが、それでもこういうことを平然と言ってしまうんですよ、どうにかなってしまっているから。
もう助産院で産むことこそが、自分がお腹の中の子供のことを考えている証だとおもってしまっているので、他のことを考えられなくなっているのです。受け入れられなくなっているんです。その「決めたこと」の基準が間違ってしまっている可能性を感じる隙間さえない。
「決めたこと」を決めていく背景にはsuzanさんのご意見

リスクは理解しているけど「自分には起きない」と信じているんですよ。
賢いから妊娠にいいことはすべてやっているから自分に自信があるから、
そして「前回も病院に運んでもらって助かったから今回も何かあっても助かる」という思い込みもありそう。
自分には危険なことは起きないし起きても必ず助かる、と信じている方はけっこう多いです。
あとで後悔する人もいますけど、死ぬと後悔もできないんだけどねぇ。

というものもあって、下手したら前回の大量出血は武勇伝、勲章扱いでしょう。

プチトマトさんも義姉さんが助産院での出産を選択された際に

助産院は危険だと申したし

とありますが、出産を無事に終えた義姉さんは

今は授乳の為の自然な食材とか砂糖は駄目などをドヤ顔でしゃべってます。

ということなので、義姉さんの周辺では今後、助産院での出産や育児で偏った意見の母親が増えていく可能性も大ですね。
友達ならば縁を切るなり、話題を選んだり、適当に都合よくしていけることもあるけれども、家族ともなるとそういうわけにもいかなくて親戚付き合いを考えるだけでもストレスになることも。

検診を受ける病院と助産所との連携というか、そういうのもsuzanさんのご指摘

けっこうな信者だと、医者が助産師と違うことを言うと(前回大量出血だから助産院での分娩は危険、とか)「あの医者は自分のところでお金儲けしたいだけ」とか言い出して検診にも来なくなる危険性がありますので、下手なことは言えないです。助産院の助産師に言っても「でも妊婦さんの強い希望なのでー」とか言われて結局ダメ。

にすごく思い当たることがあるので、結局、妊婦に本気でリスクを伝えることができるのはその出産を相談されている助産師しかいないのではないかとさえおもえてきます。
というか、本当はそうなんですよ、開業している助産師の方達の存在そのものが病院での出産を否定しているような今の状況にこそ、問題があるわけでーこういうことまで義母さんとか妊婦である義妹、義姉さんたちがきちんと応対できるレベルであれば、「決めたこと」にもまだ理解をしていく気持ちになれるかもしれないけれども、シャットアウト状態でしょうからね。
本当にね、友人・知人でも耐えられない選択が家族ともなると…

前回分娩大量出血は今回も危険

頂いたコメントからです。
ゆきなさん、ありがとうございます。

ゆきなさんからのお話
※中で話されている義妹さんの授乳に対する指導についてのコメントはこちら
授乳時間に鉄則を作ることで、子供が将来時間を守れる子になるという発言にしてもなんですが、ゆきなさんの義妹さんのように、
「危機的状況から奇跡的に」
な方達こそ、武勇伝として立派に語り継がれ、間違った解釈を増殖し続ける傾向はこの助産師の問題に多くありますね。
特に、今回のような出血量が多かった方に対して、ゆきなさんにコメントをくださったsuzanさんのように

前回分娩で出血量が多かった場合、次回も大量出血になる可能性が高いんです。しかも前より多くなってしまうのが普通

というような内容を助産院の助産師自らがして、病院で出産するように指導するのが本来の助産師のとるべき指導だとおもうのですが、そもそもそのような説明・指導が義妹さんにあったのか?
あと、この助産院の嘱託医の方は検診をする際に、これらの内容を確認してくれないのでしょうか。
もちろん、一番問題なのは無知な私たちと、その無知にあぐらをかくようにして正しい指導や現実に待ち構える問題、可能性をも教えてくれない助産師の方達です。
この暴走を食い止めるために必要があって嘱託医・提携病院がある、という依存は正しくないのかもしれませんが、「なんとかなっちゃうものよ」という精神の多い暴走系の方達(実際になんとかしている搬送先の病院を批判したりもしている)にとって、唯一の外部接触ともいえる病院での検診こそが正しい情報を得るチャンスとおもっています。
ただ、この嘱託医が既に思想的にどうよ…なことも少なくない。
更に言えば、説明は受けているのに、自分の希望に添わない話しは無視するというタイプの方とか。「本当なら断るべきの妊婦を受け入れているのではないか?」という問題はあるわけで、このゆきなさんの義妹さんの助産師の方が本来はどういう指導・説明をするべきか? 前回分娩大量出血を受けることは問題ないのか? を助産師の方に考えていただきたいし、私たち産む側が大量出血が武勇伝で済む問題なのか? をきちんと考えておくのも大事だとおもいます。
不安を煽る行為を嫌いますが、私自身がその甘えから子供を亡くしている経験があるので、あえて強い問題を持つ内容をご紹介します>
産後出血死

紹介したいサイトが他にもあるので、また改めて書きます。


今回のタイトル「前回分娩大量出血は今回も危険」はsuzanさんのコメントからいただきました。助産院での出産を考えられている方には是非、ご一読くださいますよう、お願い申し上げます。

「近代日本における出産と産屋」

ご無沙汰しております。

琴子を通じて出会った伏見裕子さん(産屋と医療―香川県伊吹島における助産婦のライフヒストリーなど)が近日中に本を出されます。
タイトルは「近代日本における出産と産屋」。(勁草書房より)

出部屋(デービヤ)とよばれた香川県伊吹島の産屋について、社会や共同体の動向と関連させつつ存続と閉鎖を歴史的・民俗学的に検討。

女性が出産時ないし産後の一定期間、家族と離れて過ごした産屋はかつて日本各地にあり、伊吹島の出部屋も1970年まで利用された。当時の島の史料分析と、当時の助産婦や、出部屋で出産を経験した女性島民のライフヒストリーの聞き取りを通じて、重層的に産屋の存続のメカニズムを解明。日本近代の出産史を女性史・民俗学的に捉え直す。

病院に否定的な気持ちから自然出産を好む方達から、「産屋」こそがという崇め奉るような語りが多くなってきました。
助産院などといった非医療の分娩や、助産師の方達の問題について考える際、非常に勉強になるお話が多く、「近代日本における出産と産屋」にも期待をしております。
そして、読んでくださった皆さんのご感想も楽しみです。

出産階級制度のさらなる実態

ママカーストならぬ出産階級制度!? 分娩に優劣をつけてどうするの?

自然分娩は大きな括りであり、その中にも更なる階級制度がある。
病院<助産院<自宅出産<無介助分娩
いや待てよ、もしかしたら
病院<院内助産院<助産院<自宅出産<無介助分娩
がさらなる実態となった現代。
でも本当は、出産にこそ階級はなく、赤ちゃんの無事をどこまで大事に、優先できるか、ってことだとおもう。
でも、それは幻想となったのかもしれない。
何故ならば、医療が発展して大勢の母子の命が救えるようになったことと、「妊娠は病気じゃない」から始まり「女性の産む力」で終わる自然万歳思想がイコールになってしまい、終いには医療従事者で国家資格を持つ助産師達が、医療介入こそが母子をリスクに晒す行為・選択かのように、助産院や自宅出産で産むような文言が多くなった。
そのような内容が雑誌やブログ、ネットなどで、女性達が出会う多くの情報となってしまった。

この出産階級制度を逆に見ると、安全なのは
病院>院内助産院>助産院>自宅出産>無介助分娩
だろう。
でも、自宅出産よりも助産院の方が安全ともいえないくらいに、助産院にもいろいろなところがあり、設備は一般家庭程度のところもある。そのような実態を知れば、助産師に出産費用として何十万円も支払う(「病院が高い」のではなく、分娩費用が高いのであり、助産院や自宅出産は決して安いとおもえる額ではない)のなら、「妊娠は病気ではないし、女には産む力があるし、自分は健康体で食べ物にも気をつけている」とおもう夫婦だと、助産師に支払うのをせずに済ませたくもなるだろうし、更には、誰をも「凄い!」と言わせられる出産をしたいと、助産師すら呼ばない無介助分娩(プライベート出産とも表現されている)を選ぶ人たちが今、多くなっている。(mixiなどにもコミュニティがあったり、出生届を出すことも含めたマニュアル本のようなものまで出版されている)
私はこの無介助分娩が広まった理由の一つに、助産師達が過度に出産を安全なものだと言って宣伝してしまったことをあげるべきだとおもっている。
決して、産む側だけが無謀なわけではなく、そうさせた原因が「私たちは見守るだけだ」といって、病院から出て産むようにした助産師達の責任があるはずなのだ。
それなのに、そうなると今度は「無介助分娩は危険です」と言い始めた。
もちろん、無介助分娩は危険だ。
でも、それが何故に危険かといえば、誰にでも起こり得る異常の兆候を“素人には見極められないから”ということで、せめて助産師が立ち会うようにと言うのだ。
でも、助産師が立ち会ってその異常を見極めてくれたとしても、それが病院への搬送、緊急時に必要な医療介入に間に合うとは今度は言えないはずなのだ。
それなのに、助産院や自宅出産での分娩を選ぶ方達に「いざというときには病院へ搬送するから」というのを、安全を確保したような印象を持たせて言っている。
本当は違うはずだ。
やはり、すぐに緊急帝王切開や医療介入ができないことは危険で、自然分娩で産むことを祈るのが母親の役目ではないはずなのだ。
子供の安全を祈るのが母親の役目であり、そして、その子供が産まれた後、少しでも育ちやすいためにも、家族のためにも母親にもリスクの少ない管理や出産をと願うのが家族や、その周りの方達の祈りであるのではないだろうか。
実際に、私は自分の娘が助産院で死んだときに、自分が元気なことを呪った。
ちっとも嬉しくないし、もしもどちらかが死ななければならなかったのならば、それは娘ではなくて、私でありたかった。
多分、それは第一子の出産であるから、子供を残して逝くわけではないからこそ、簡単にそうおもえただけかもしれない。
上に兄姉のいるお産であれば、一人の子供の無事だけを祈るわけにもいかないのかもしれない。
自分の子供の死を通じて、医療従事者の方から教わった多くのことの中に、「母体を優先させる」ということもある。
死を通じて考えると、何を求めて、どのような結果が正しかったのかは簡単には言えないとおもった。
だからこそ、母子共に安全であることを素直に祈るべきであり、そして、それでもやはり、もしもまた私はどうしても母子のどちらかをとなれば、子供の葬式をもう一度出さなければいけないくらいならば、やはり先に死にたいとおもう。
そして、このことを話すと、今度は子供に障害がある方のご意見が私の心を苦しくさせた。
「子供の葬儀を出してから、その翌日くらいに死にたい」というのだ。
なんという母親の切ない愛情だろうか。
子供は必ずしも親の願った通りではない。
そして、時には出産により、子供に障害が残ってしまった方達もたくさんいるということも、これも私たちが決して忘れてはならない実態なのだ。
だからこそ、どんな結果をも受け入れるべきだというのならば、子供が少しでも安全に、そして生きやすいようにして産まれてきてくれと願い、その結果に近づけるように分娩場所を選ぶべきなのではないだろうか。
そこにいきなり、「医療介入による事故の例」ばかりをあげ、そのような話しを鵜呑みにした私が結果、助産院で産んで死んでしまった子供の話しをこのようにしていると、「いつまでもひきずるな」と言って、実態を知られないようにするのが助産師の方達の願う、母子の安全へのための働きかけなのだろうか?

このような記事を読む度に、いかにしてくだらないことに固執して私が子供を死なせてしまったのか?を思い知らされる。
産み方は生き方ではなく、女性に産む力があるとうぬぼれず、人の力を借り手でも子供を安全に産みたいと、そう願い合える関係を社会全体で築いていただけたらと願っております。

天国の成人式

成人迎える天国の娘へ、笑い声届けたい 風見しんごさん

事故当時のこと、鮮明に残っています。
お嬢さん、天国で成人式を迎えられたんですね。
親にとって辛いことは消えないのですが、天国で楽しく過ごされていることだけは間違いがなく、娘さんが笑顔で、ステキな晴れ姿をご自分でも楽しまれていることを信じております。
そして、慎ましく、幼くして人のためになることを身をもって教えてくれる、そういう立派な人たちの成人の日を、天国の皆さんで祝してくれていると、そこに琴子も加わっているので、風見しんごさんの娘さんにもお世話になっているとおもいます。


生まれてきて20年という月日を無事に生きて来れたことを当たり前におもわず、感謝することから始めてもらえたらと、子供を亡くした親の私は今日の成人の日にそう願っています。