琴子と妹と弟

ご無沙汰しています。

先日、琴子のお墓へ行ってきました。
家族揃ってのお墓参りは数ヶ月ぶり。
今年、妹のリンズが自分の飛躍を願って挑戦したときにいただいた番号が「31」。
お姉ちゃんが見守ってくれてるねと話したり、弟のダンジも、自分の将来の目標を持てたりと、姉に報告したいことを伝えて帰路へ。
通過する日光で、電線を渡る猿に遭遇!
リンズとダンジが猿発見と同時に「あ!」と言ったら、車内の声は聞こえてないはずの猿がこちらを見て数秒止まってくれたり、地元のお祭りにも遭遇して車を停めたら、うちの隣の車のナンバーが「831」で、リンズが「お姉ちゃんの誕生日だ!」と笑顔。
そのお祭りで、ダンジが手打ち蕎麦に並ぶとくじ付きで、お店のおばさんがダンジを可愛がってくれて、大当たりのクジをひきやすくしてくれて...1等賞のそば殻の枕をゲット!
ダンジ、大喜び!!
「琴子お姉ちゃんが喜んでくれてるんだ」と、二人が自然にそうおもってくれているのが何よりも嬉しかったです。

子どもが笑顔で、そして、出産が喜び多くあるように祈るばかりです。
お盆でご先祖様をお迎え、お見送りされるときに、そこに幼い子どもの姿もあることを思い出してもらえたらと願っています。

琴子、11歳になる

もう11年経つけれども、それでもやっぱり、死んだ子どもの年は数えます。

生きていたら、どんな女の子になっていたのでしょうか。
最近、琴子の妹と弟と、「もしもお姉ちゃんが生きていたら?」という話で盛り上がっています。
リンズは「お姉ちゃんが生きていたら、私はきっと、たくさん叱られていたかも」と、自分がよく弟を叱るもんだから、自分も叱られる立場だったろうと言っています。ダンジは「きっと、僕を可愛がってくれたよね?」的なことを言っています。
優しくて、たくさん遊んでくれるけれども、一番上のお姉ちゃんだから、一番偉くて怖いかもとか、いろいろと想像してくれています。

ある物語の中で「生まれてすぐの子どもが死んでしまった」という設定に遭遇すると、ダンジはすぐに「どこで生まれたの?」と聞いてきます。それは確実に琴子の影響で、病院で産んでいたら生きていた可能性が非常に高いということを私が話しているから。

きっと、あと数年したら、リンズもダンジも自分のことにもっと精一杯になって、家族よりも友達との生活が優先されるようになり、そうしたら琴子のことも話さなくなるでしょう。でも、それでもこうやって「お姉ちゃんがいる」ってことを一度はしっかりとわかってくれているから、私はそれで十分。


今日の11時半頃に生まれた時を迎え、13時頃には「温かいうちに抱いてやれ」って言われます。

つくづくおもいます。
産み方は生き方じゃないし、子どもは無事に生まれてくれるように最善を尽くして欲しいって。そのための知識にしてもらえるならば、私は「お前が馬鹿だっただけだ」って罵られても、それでも構わないから恥を晒していこうって。
助産所や自宅で産んだからって凄いんじゃなくて、子どもの無事のために自分のちょっとした希望を引っ込めていく、友人知人の武勇伝に囚われずに子どものために選択するってことが凄いとおもって欲しい。
というか、「凄い」ってことは素晴らしいんじゃなくて、エゴでしかないから。

やっぱり、琴子には生きていて欲しかったし、リンズやダンジと一緒に馬鹿話して、大笑いして、ここに居て欲しかったな。


琴子の死から11年。
まだまだ問題がたくさんで困っているよ。

親は死んだ子どもの年を数える

10年前に今日の「お祝いの仕方」がわかっていたらのなら、私は病院で産むことを選択していたはずだっておもいたい。「子どもが死ぬのも運命だ」なんてことを今の私が思っていないことを、あの頃の私に知ってもらいたい。あの頃の自分を誰よりも批判していること、軽蔑していることも、何もかもをも産む前の私に伝えたい。
でもそれは今日だからじゃなくて、あの日以来、いつでもそうしたいって思っている。

この世の数えでいえば今日で10歳。
日曜日だった。
助産所を出て、死んだ琴子の亡骸を抱いた私が助手席に座って、「このままどこかに(車で)ぶつかって死なないか?」と琴子の父親に提案したら、「ダメだよ、お葬式を出してあげなきゃ」とかって言われながら帰ったのも10年前の今日のこと。


「食事にも気を配り、母子ともに異常なし」だと「胎児は無事に生まれて当たり前」。そうおもいながらの運命論の中、生き方は産み方とまで言われれば、自分の運命は奇跡に彩られたもので、それに出会えたんだと歓喜し、勘違いしてしまう。
「脳に障害が残るのは不要な医療介入があったからだろう」とか言われれば、病院を避けたくなるのは親として子どものためとも言える。

無事に産んであげられなくて、すみませんでした。

9年前の今日、琴子は助産所で死にました

今日は琴子の9歳のお誕生日で、9回目の命日です。
ブログの記事は誕生日とは関係ないことにしようかなとか、少し考えて今を迎えていますが、今日はやっぱり気持ちがあんまり晴れません。
吹き飛ばしたくて色々としたいとおもっても、やっぱり無理なんです。

琴子は今日の11:30頃に生まれた時を迎えて、午後になったら死んだ時刻を迎えます。

9歳の子が死んでしまったら、きっと
あなたを忘れない
って言ってもらえます。でも、生まれてすぐに死んだ子どもに対しては、大半の方が親にまで
「忘れろ」
と言います。忘れろと言う方にも親切心があってのことのようですけど、忘れられるわけがないのに何度も言われると、「忘れられなくてすみません」とでも言わないといけないのかとおもうほどです。

2003年の今日は日曜日でした。曜日が違うだけでも救いですが、やっぱり今日は琴子が生まれたことを祝いつつ、死んだ理由があまりにもお粗末で、自分自身を責める気持ちが喉を詰まらせます。



直接名前を呼んでみたかったな。9歳だから、背中を見送る日の方が多いのだろうから、私に振り返る琴子を見たかったな。

そのうち会えるっておもう毎日は、意外と長いです。
助産院や自宅出産で産む選択肢があるのなら、助産師や母親の生き方基準での判断ではなく、母子の安全を最優先した判断をできるように情報を流し、実施して欲しいです。

琴子が死んだ経緯を少しはまとめて書けているかなとおもい、再度。
Vol. 338 "自然なお産"ブームに警鐘を。助産院・自宅分娩の問題点を広く考えて欲しい *1

*1:2012年現在、横浜市のHPでは該当する内容が見当たらず、制度が変わっている可能性があります

亡児、という悲しい事実

いつも近くにいるよって言われても、それは私たちがそう願っていることを肯定してくれて、決してそれは嫌じゃないけど、でも目に見えないのだから辛いのにはかわりない。それでも辛いだけじゃないのだ、きっと本当に近くにいるのだっておもうようにして、一生懸命、リンズたちに「お姉ちゃんが見ているよ、お姉ちゃんに恥ずかしくないように生きなさい」って言ってみたり。子どもは素直だから、私以上にお姉ちゃんがいるっておもっていて、本気でお姉ちゃんを気にして生きてくれている。
こうやって、琴子は家族として生きてくれている。

それでもやっぱり、心の中の琴子はちっとも成長していない。あの日の、赤ちゃんの、目を瞑ったままの姿でいるだけ。
妹も弟も、とっくにもっと大きくなって成長している。並べば、琴子がいつまでも一番小さい。



時々、個人的にメールで「琴子ちゃんの御陰で子どもの命を優先する選択ができました」って言ってくれる方がいて、とっても嬉しい。
そして憧れる。あの日までに何故、自分は知ることができなかったのか、私にも考える機会があったのではないかと。そういうことも含めて、琴子が教えてくれているたくさんの問題が、私と琴子の日記。妹と弟の日記とは違うものなんだけど、凄く大事な日々。だから、惨めになりつつも、そういうメールは琴子へと届いたものだから、捨てられずにずっと持っている。


生活の大半で我慢を強いられている亡児への想いを、ずっと抱えていく私たちの親としての懺悔の想いを、誰かの名誉やくだらない権力の使い方のために闇に葬ろうとしないで欲しい。堂々と、話し合うなり、本当の意味での改善を目指すことに使って欲しい。一人一人が、私たち親のとっても大切な子どもだったのだから。

福島県大野病院事件で産科医が逮捕された日

「あなたに何か関係あるの?」そうおもわれる方もいらっしゃるとおもいます。でも、私にとって「福島県大野病院事件で産科医が逮捕された」というのは、全く無関係ではないのです。

大野病院事件での医師逮捕から丸5年…>うろうろドクターさん

逮捕されたという報道があってからのことですが、ある産科医の方と琴子のことが主だったのですが、電話で話をしていました。そこで逮捕されたことの詳細(裏話含)を伺いました。そうしたら、「医師だけのMLがあるのだけど、そこで大野の医師があれで逮捕されるのならば、こっちの助産師こそが逮捕されるべきだ! と警察に通報したと医師が書き込んでいた」とも言われました。それは凄い一撃を受けた気持ちになりました。こっちの助産師というのは、私が琴子の分娩介助をお願いした助産師のことです。
それまでにも「刑事告訴をしないのか?」と何度も言ってきてくださる方がいたり(医師ではありません)、私自身、どうしたらいいのかと悩んでいた日々もありました。しかし、私たち夫婦はそれぞれに意見が違っていたりもしましたが、最終的には「刑事は妥当ではない」とおもいました。そういう頃だったと記憶しています。

助けようとおもっていた医師が逮捕され、助ける術を放棄した助産師は罪に問われることないままである、それが自分にも決断を間違っていたのではないかなどと悩んでいる気持ちが、きっと今でも納得したという自分とは別に、どこかにいるような気がします。でも、刑事告訴はしないことに納得している、というのも間違っていないと感じてもいます。

2008年に無罪が確定したときに産科医を続けるといわれ、今でも続けていらっしゃるそうです。尊敬致します。
そして、当時「自分がやるべきことを、別の医師の方がしてくれた」と、通報されたという医師の方に、何処のどなたと全く存じないのですが感謝しています。

今日、福島県大野病院事件で産科医が逮捕された日というのは、私にとっても大事な一日なのです。

反医療、自然出産の覚悟が出来ているという方へ

日付が変わりましたね、琴子の生まれた日になりました。
でもまだ生まれていません。
7年前の11時過ぎに生まれました。
そして、午後には死んでしまいました。
だからまだおめでとうでもないし、死んでしまった時を迎えて詫びるのには早いのです。

こういうことを話すと、自然出産を薦めたいだけの方からは
「あなたはまだ子供の死を受け入れられていない、可哀相な人だ」
と優しい言葉で罵られます。
でも他所で話しているのを見ていると、病院で無事に生まれた母子に「きっと暴力的なお産だったでしょ? 酷いお産だったでしょ?」と近付いている様子ばかりです。
おかしいですね。
子供が死んでしまうことよりも、私を待たせるなんてふざけてる、私を一番大事にしてくれなかった!というようなこと(ですよね?)の方が大事だなんて、おかしいですよね?


無介助分娩の問題により、多くの方のご意見を目にする機会に恵まれました。
からしてみると、無介助分娩は一部の助産師の方たちやそれらを持ち上げて商売にしている、自然出産を推奨していた方たち(時には医師もいますね…、助産師会だってそうだ)にも大きな責任があるとおもっています。
これだけお産を軽視するようになったのは、「女性には産む力がある」「病院で生まれ、管理された子供は可哀相」などとさんざん言ってきたからでしょう。
医療の発展に胡坐をかいて、言いたい放題だった。
無介助分娩はそこら辺の意識が大きく手伝って、一気に浸透したんじゃないでしょうかね。
そりゃそうですよ、「助産師はただ見守るだけ」とかって言っていましたよね?
だったら助産師だっていらないよ!ってなりますよ、そりゃなります。
これは当然の結果ともおもっています。


先日、当ブログで医師のお二方のお言葉から
自宅出産のリスクの説明
を紹介させて頂きました。
自宅出産を計画されている方にはこれでも届かないんだろうなぁ。
自宅出産のお風呂で水中出産は危険ですよ、これは介助する助産師の指導の責任は否めないでしょう。
以前に当ブログでも産褥熱でお話しましたし、
うろうろドクターさんのブログうろうろドクターから「水中出産か…orz
skyteamさんのブログ東京日和@元勤務医の日々から「自宅分娩に水中分娩☆マスコミさんは責任とりませんヨ
他にも危険を教えてくれるサイト、ブログは沢山あります。
助産師介助であっても、自宅出産の衛生面は管理され難いために無法地帯のようなもんです。


産む前に、本気で子供が死んでも構わないっておもうんですか?
理解出来ない。
私はそんな風にはおもっていませんでしたよ。
助産院で子供が死んだ私でさえ、そんな風におもっていませんでした。
助産師を信じていたのと、当時は全くといって良いほど称賛以外の情報がなかったこともあって、私は愚かで気付けずにいて、医療から遠退くお産がどれだけ危険なのかをわからずにいた。
だから、子供が死んでしまうなんて想像していませんでした。


では、ここから先は『自分が自宅出産をしたいのだから、きっとお腹の中の子供もそうおもっているんだ。そして、私や子供が死んでもそれは仕方のないことだ』という覚悟をされている方に読んで欲しくて書きます。
反医療、自然出産の覚悟が出来ているという方への私信です。

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亡くなっても赤ちゃんはいつまでも柔らかい、ふわふわとしたお人形さんのような赤ちゃんのままだとおもっています?
現実は物凄く残酷ですよ。
もっと説明したいけど、倫理的にアウトと言われるかもしれないから簡単にしか言えないんですけどね、ぎゅっとしぼんだ感じになってしまいます。
天使ちゃんの家に行くと、温かいときの顔は皆違うんだけど、時間が経ってからの写真を見ると、不思議と皆同じ顔になっています。
これは大人の死と大きく違うところかなっておもうんですよ。
大人というか、ある程度生きた方だと表情の記憶もあるせいか、それぞれの顔でお骨になっていきますけど、赤ちゃんは不思議と同じような顔でお骨になるようですね。
地蔵尊が子供からっていうのはわかりますよ、その通りです。


私が琴子の遺体を前に「いつまでもここに寝かせていたい」とこぼしたら、真面目な顔して親族や葬儀屋さんから「腐ってしまうから、置けて3日」と言われました。
おかしいですか?
そうですね、ちょっとおかしかったのかもしれませんね。
でも天使ママの一人の方にこの話をしたら「その気持ちを理解できるのは私たちだけなんだろうね、私も剥製にしてでも手元に置きたいとおもった」と話してくれました。
私も全く同じにおもっていたんです。

火葬場の申し込みをする際に、幼い子供ほどなるべく午前中に予約を入れるようにするそうです。
何故かわかります?
数名の方をお骨にした後だと熱が残っていて、あっという間に燃えてしまって骨も残らないからだそうです。
琴子のときは夏で暑いからドライアイスを使っても3日間しか待てないと言われ、更に火葬場は既に予約で午後しか空いていないと言われ、火葬場の方が気を遣ってくださり、なんとかお骨は拾えましたが、この先の記憶が曖昧なんです。
確かにお骨を拾わせてもらいました、琴子は私たちの勝手で死んでしまったので、決して親不孝ではないので拾いましたけど、棺の中の琴子に最後のお別れをした記憶はあるんですけど、お骨がどんな風だったかを思い出せない。
あぁ、火葬場の煙突から上がる煙を見て、駆けつけてくれた知人が
「煙になってお空に向かっているんだね」
って優しく言ってくれたのを思い出しました。
しかし全く嬉しくなかったですよ。
煙は不幸の色そのものでした。
「もう二度と会えない」ということを確信させられました。
これで剥製にも出来なくなった。

あなたたちが迎えるかもしれないのは、こういうことでもあるんです。
まぁ、倫理的に無理なこともありますので、全然優しい想像の範囲です。
もっと沢山書いたんですけど、ちょっときついかなっておもって削除しました。

どうかカッコイイことのような想像をしないでください。
自分の理想を追うことが正しいなんておもわないで欲しい。
「医療は不自然で子供が死ぬ方が自然−私はそれを受け入れる覚悟がある」ということは、自分がいかに子供に対して残酷なことを言っているのか…でもきっと届かないのだろうなぁ。


では質問。
なんのために産むのですか?

もしかして、妊婦という特別な日々を求めていただけではないですか?
自分の人生最高の一時と言われそうな妊娠生活の最後を飾るのが、『ちょっと先行く(?)やってみたいお産』なだけではないですか?
だから「お産で終わっても仕方ない」=「子供が自然の中で死んでも仕方ない」って仰るのではないですか?
でも本来、お産は新しい家族を迎えるための始まりではないのですか?
100%の安全と無事はどの施設でも保障されません、それは残念ですが事実です。
でも、子供が無事に生まれるために最善を尽くすという意味では、施設で大きく差が生じます。
母子の安全を第一にして頑張っている助産師の方には申し訳ないことだけど、やはりすぐに帝王切開が出来ないとか、心音が下がってきて子供が異常を訴えていることに気が付く術がない、救いを求める子供にすぐに医療の処置が出来ないと言うのは死や障碍へのリスクが高くなるんです、それを認めない「助産院や自宅で産む方が安全だ」というような助産師ならば、かなり問題の多い助産しだとおもいますよ。
多分、あなたにするべき説明をしていないのではないかな?
VK2シロップもそうですよ、「飲ませないでも大丈夫だけど」というような説明ならば、それは先にあなたを洗脳しているだけなんです。

自分のやりたいお産のためなら子供が死んでも仕方ないというような意味合いを言うなんて、私には理解出来ません。
自宅出産を選ぶにしても、「子供が死ぬことも覚悟している」なんて決して言ってはならない言葉です。
お腹の中で子供に先天性の異常がみつかって、生まれても数時間で亡くなると宣告された親でさえ、子供には少しでも長く生きていて欲しいと願いながら産むというのに…信じられない。

きっと子供になにかあったら言われますよ、あなたに自然出産を薦めた方達から「子供が選んだ結果なんだ」って。
でも違うでしょ? あなた達は先に「自然の中でなら子供が死んでも構わない、何かあってもそれは子供も選んだことなんだ」という選択をしているんですから、その子が選んでいるわけではないのですよ。
ごまかしです。
子供に押し付けているんです、親達の勝手を。
更に言えば、もう自己責任ですよ、ここまできたら完全にその域に入っています。
確かに、説明責任を果たしていない無責任な助産師はまだいます、ホメオパシーなどにしたって今のような在り方ならば、反医療の意識から完全に離脱できるとはおもえない。
病院や薬を否定して成り立っているのが現在の助産院(自宅出産)ですから、国家資格を持つ助産師が持つべき責任は重いです。
でも、あれだけ必死に「きちんと解答してくれ、納得出来る説明をしてくれ」という方達の声にも上辺の言葉でしか答えられず、「覚悟している」の一点張りならば、もう十分にそれは自己責任ですよ。
(でも、そうやって自己責任の結果を生む意図ある方達もいるわけですから、問題は複雑で根深いのだと痛感します)



子供だけじゃない、母体にも同じです。
子供が生まれたら、子供は母親を必要にしてくれます。
だから医師たちは必死に母体も救おうとしてくれます。
でも、あなたは「自然の中なら死んでも仕方ない」と言う。
申し訳ないけど、この発言は親としての発言とはおもえないです。
きっと最善を尽くされた中でも亡くなってしまった母親達は、少しでも子供の成長を見届けたかったとおもっていたでしょうし、子供だって心にどれだけの傷を負うか…



産み方は生き方ではないし、自分らしいお産とは本来、母親らしく子供の無事を祈ることだとおもいます。
きっと、昔の女性達は子供の無事を祈って、そしてそれに答えたのが医療だったのだとおもいます。
その医療でさえ救えない命がある…だからって医療から遠退くのは間違っているんです、助かる可能性があっても、遠退くことで救える命でさえ亡くしてしまうのです。
お産で満足するとかしないとか、子供が無事でなければそんなのはなんの意味もない。



今日は少し書き過ぎましたかね。
他所で書くよりも、琴子にも聞いて欲しい話だったのでここに書きました。

明日からまた、コツコツとブログ運営をしていきます。


母子共にご無事であるように祈っております。