琴子の思い出
裁判を起こすにあたり、琴子の引出しを開けることが多くあった。
この引出しには琴子の写真が入っているし、友人や知人から贈られてきた手紙や季節の飾りとか、とにかく、私にとってはここだけが琴子のために残された空間なのだ。
琴子の写真といっても、出産後、2時間の蘇生術のあとのまだふっくらとしたままの写真が1枚だけあり、それが遺影になっていて、あとは死後硬直も始まって、水分が抜け始めてしまった写真ばかりで、これを親でもない他人が見たら、ただの死体の写真と言われてしまうものばかり。
でも私にとっては琴子。
だからこの引出しには大事な琴子がたくさん詰まっている。
普通は子供の思い出とか写真などは増えるばかりで大変なのだろうが、琴子の場合は増えることがない。
それが辛くて、一時の私はただひたすらに琴子の遺影のある箪笥の上の空間を撮影して現像していた。
供える花を変えてはパシャリと、たくさん撮っていたなぁ。
琴子の思い出の引出しを開けるというのは、結構辛いことだった。
やっぱりあの頃と今の私ではいくらか違いもあるのだろうし、忘れることは決してないけど、どう言えば適切かな、分かり易く言うのならば、亡くした直後の辛い気持ちは若干薄らぐ…否、和らぐというのかな、だからしばらくは開けないで、遺影の琴子だけに話し掛けていたから、琴子のも一つの顔、本来は親が見なくてもいいはずの顔を久しぶりに目にしてしまい、すぐに2003年の8月31日に記憶が戻ってしまいそうになった。
昨日、ある方の講和会に参加した。
その方は73歳になる男性の方なのだが、当時7ヶ月だった三男さんを病気で亡くしたと話の中にあり、講和後、私はその方のところへ行き、自分も娘を亡くしたと話してみたら、優しく
「辛いですよね」
と言ってくれた。
そう、その方も今でも辛いのだ。
生きていれば35歳になるそうで、私と同じくらいの息子さん。
「辛かったですね」
なんて、過去形にはならない。
私も溢れる涙をこらえながら、
「やっぱり今でも奥さんとお話されますか?」
と聞いたら、
「当然ですよ、妻は毎日のように“同じ棺に入りたい”と言っています」
と言われたので、
「私も全く同じです、娘の臍の緒をとってあるので、私が死んだら棺に入れてくれるように皆に頼んであるんです」
と伝えたら、気持ちを100%理解してくれている笑顔を見せてくれた。
「死んだ子の年は数えるな、忘れろって皆に言われると辛い」
とちょっぴり愚痴もこぼしてしまったのだが、
「忘れられるはずがないよね、年だって数えるよね、僕の子だって、生きていれば35歳だよ」
と…。
私と琴子の思い出が増えることはないけど、いつまでも続いていく。
それで良いんだと、昨日は心が軽くなった。