子供を失った親への言葉

『まだ泣いているの?』

これは2003年9月の中旬、同町内に住む女性の知人が我が家に来て、泣いていた私にくれた言葉。

ちなみに琴子を亡くしたのは2003年8月31日。


『どういう顔をして行ったらいいのかわからないよねー』

これは2003年11月の頃、仕事関係の友人たちが集まった時(私達は当然欠席)、ある友人が笑いながら言っていたと、別の居合わせた友人から聞いた。

「そう言って心配していたよ」

と言われたけど、そうは感じられなかった。


『思い出がないだけマシ』

これは比較的多くの人から言われた。

それと、こういう発言の前には大概、ある程度育ってから亡くなった子どもの話がある。

これはどちらにも失礼な発言だとおもう。


『うちも去年、犬が死んだ』

琴子と犬は同じなのかなぁと、なんともやりきれない気持ちになった。

犬だからって殺されていいわけないし、飼っていた犬が死んでしまったことは悲しいことだとわかる。

でも、私も過去に犬を飼っていて亡くしたことはあるけど、全く同じ悲しみだとはおもわない。

命に甲乙をつけるのは間違っているのかもしれないけど、友人がもし子供を亡くしたとして、琴子の経験が無くても私は犬の話をすることはなかっただろう。


『よかったー、泣いてなくて』

2003年11月、友人から電話がきたとき、私が電話に出たら開口一番に言われたのがこの言葉。


『A君たち(20年近く会っていない人たち)が会いたいって言ってるんだけど、遊びに連れて行っても構わない?』A君たちを連れてこようとしたのは、私の高校時代の友人で、手紙で琴子のことを報せてあった。

他県に住んでいるので、この友人とも滅多に会えないし、このときは琴子の死後、初めて連絡をくれたときで、A君たちと前の晩からドライブで楽しんでいた中、電話をよこした。

勿論、断った。


『その話はしなくていいから』

2004年の2月。

琴子を産むまではちょくちょく会っていた友人夫婦の奥さんから「久しぶりに夕食でも一緒に」と電話がきた。

まだ琴子のことで泣くことも多くあったし、琴子の死後、全く会っていなかったから、『娘の話をするのが辛い』と言ったら、上記のことを言われた。

人によってはこの友人は私に気遣いをしてくれたとおもうだろうけど、私は不愉快だった。


『じゃぁ仕方が無いね』助産院で出産して琴子が亡くなったとの説明をした際に言われた言葉。


『私も去年、子宮筋腫の手術をしてね、そろそろ子供が欲しいんだ』

2003年9月に遠方に住む知人から献花が届き、そのお礼に旦那が電話をした際の会話から。

旦那は「頑張ってね」とだけ言っていたが、意味がわからない。

どうしてこういう場面で私達に言うのか、私達夫婦になんと言って欲しいのか。


『俺は自分の家族以外が殺されてもなんともおもわない』

オーストラリア出身の同じ年の友人(今は絶縁だから元友人)。

日本人女性と結婚し、子供も一人いる。

酒の席の上とはいえ、許せなかった。

琴子のことが無くても、人を不快にさせる発言。



これを読んで、私に理解を求める人もいるかもしれない。

だとしたら、だからこの世は変わらないんだとおもう。