子供を失った親への言葉−弐
昨日が“言われて不快”な方だったので、今日は“言われて嬉しかった”ことを思い出していきます。
先にお断りしておきますが、言われて嬉しかった方には何故か宗教色が濃いのが多くありますが、私は特別に強く信心している、特定の宗教・宗派は無く、ただ、昔から仏教には興味があったので、基本は仏教となるとおもいます。
今日の日記で伝えたいことは、決して宗教の選択ではなくて、琴子を亡くした後、琴子のことで“言われて嬉しかった”ことがどんな言葉だったのかです。
『天国では皆、苦しみもなく、幸せに過ごしていると私は聞きました』
これは琴子のことで出会った女性に言われました。
クリスチャンだそうです。
初めてお会いして、それも少し対峙するような立場の方だったのに。
私も天国があると、人間は死んだら天国か地獄か、とにかく魂はあり続けると信じていたので、琴子に未来(天国)があると自然に言ってくれたのことにはとても喜びがありました。
『般若心経を読んでもいいかな?』
私達夫婦が仕事でお世話になっていた先生夫妻、私達からの報せを受け、すぐに駆けつけてくれました。
まだ私達の身内も来ない頃で、先生は仏教の勉強をされていて、上記のように言ってくださり、その場で般若心経を読経してくれました。
『まるでお地蔵さんだね、凄く素敵な顔をしている』
これは上記の先生夫妻の奥さんが言ってくれました。
私は奥さんに「抱いてやってください」と、自分にとってはひたすらに可愛いだけの琴子だったので、深く考えずにそう言ってしまったんです。
奥さんは嫌な顔一つせず、琴子を抱いてくれました。
『私も毎日、琴子ちゃんのことを祈ります』
私の友人夫婦が遠方から来てくれて、帰り際に言ってくれた言葉。
彼女もクリスチャン。
自分以外の人が毎日琴子を想ってくれるなんて、とっても嬉しかった。
『私の信心している神様に、毎日琴子ちゃんのことを祈らせてください』
これは義兄の実家が電話をくれて、言ってくれた言葉。
これまたある宗教を信仰している。
どんな宗教でも神様でも、琴子のことを祈ってくれることにはひたすら感謝している。
この気持ちはいまでも変わらない。
『うんうん、天国は楽しいって言っているよ』
友人の子供(当時確か小学2年生の男児)が琴子の写真を耳にあて、言ってくれた言葉。
凄く嬉しかった。
『これで琴子ちゃんに靴を買ってあげるよ!』
琴子を見送ってから1年ほど経った頃、甥っ子(当時6歳)が小さいお財布を大事にしているのを見て、「オバチャンに何か買ってよ」と言ったら上記の言葉を返してくれた。
どうして靴かというと、それ以前に私が甥っ子に
「琴子には靴を持たせてあげられなかったから、靴をあげたいんだ」
と言ったのを覚えていてくれたから。
お財布の中には100円にも満たない小銭だけが入っていたのだけど、甥っ子の琴子への気持ちが熱くて嬉しかった。
甥っ子は私に琴子の話をすると喜ぶとわかっていて、身内の中、唯一琴子の話をしてくれる存在だった。
不思議だね、リンズが生まれたら琴子の話をしてこなくなった。
流れを、子供ながらに持っているんだろうな。
『泣いた顔も見たかったし、目を開けたらどんな感じだったのか、知りたかったよね』
普段はあまり会うことのなかった友人だったのだが、琴子の後、外へ出られるようにと誘ってくれて、買い物に連れて行ってくれた。
道中、私が『思い出がないだけマシと言われることが辛い』と、この友人がどう返事をしてくるか怖かったけど、堪えきれなくて言ってしまったら、私の気持ちを理解してくれていたことがわかった。
『子供だって、親の幸せを祈っているんだよ』
先に出た先生の奥さん。
『琴子ちゃんに会いに行くよ』
遠方から友人が来てくれると電話があり、もう琴子はお骨になってしまっていたんだけど、“琴子に会う”という表現がとにかく嬉しかった。
人として扱ってもらえることは、無条件に感謝していた。
言葉だけじゃないです。
私の家に来てくれる度に、今でも友人達はお線香をくれたり、ときにはお土産をくれたりして、琴子は寂しくないんだなぁと、羨ましく感じることさえあります。
うちに来る度に「琴ちゃ〜ん」と、琴子の位牌に手を合わせてくれる友人。
お盆や命日に、親以外にいまでも手を合わせてくれる人がいること、とっても感謝しています。
ありがとう。
まだまだ素敵な言葉、励ましてくれた言葉、癒してくれた話などは他にもあります。
また機会をみて、紹介していきたいです。