死産から新生児死へと…新しい位牌

先週の土曜、琴子の新しい位牌が出来たことと、節目とは違うけど、戸籍に載ったということで、両家の祖父母も招き、他県に眠る琴子の地へと行き、法要を行ってきた。

死産でも新生児死でも、何か特別に違いがあるとはおもわないのだけど、私はおもわないのだけど、琴子が戸籍に載ってから、

「死産との扱いの違い」

は感じている。

それを自分たちが強調してしまうかのようで、なんだかちょっと後ろめたい気持ちもあったのだけど、子供が天国にいると、地上の親は想う以外にしてあげられることがあまりなく(あるんだけど、他者との接点がないというかなんというか…)、ついつい用事をおもいついてしまう。

で、『位牌を直そう』に至ったわけだな、と、自己分析。


新しく彫られた位牌を見て、びっくりした。

表面は戒名が同じだから、特別大きな変化はない。

驚いたのは裏面。

前までは『死産』とだけしかなかったようなものだったのに、

『○○(旦那の名前)の長女』

とあるのだ!!!

えーッ!?

なんだかやっぱり、宗教の中の差別があるわけ?

ただの因縁は言わないようにしたく、極力そうあるように努力をしているのだけど、だからこそ、和尚さんには言えなかったけど、でもなんだか悲しかった。

前の位牌にも、せめて

『○○(旦那の名前)の娘』

くらい、彫っておいてくれればまだ良かったのかもしれないけど、なんだか死産の頃の琴子は、宗教界においても、私たちの娘とは認められていなかったような気がして、本当の仏様はそんなことはないのだろうけど、やっぱり現世に生きている宗教者たちには、こういう意識はないのだろうなぁと、別に私は悟っているわけではないのだけど、妙に悲しくなった。


法要を迎える数日前に、友人天使ママさんに電話で話しをしていた。

ちょっと別の用事があって電話をしたのだけど、やっぱり話は天使ちゃんのことになる。

それと、周囲の人との付き合いの上での悩み。

その会話の中で、

「死産だと、扱いが軽くなる」

ということがあった。

電話で話していた友人天使ママさんには先に一人、地上のお子さんがいて、このお子さんのお付き合い上でのママ同士の会話の中で、友人天使ママさんが天使ちゃんのお話、お産の話をしようとおもったら、

「気にしなくていい」

というようなことを言われたそうだ。

気にしなくていいって、じゃぁあなた、自分のそのお子さんが死んでしまっても、あなたは気にしないの? と言いたい。

私だったら言ってしまっていたかもしれない。

もし言っていたとしたら、そこでもしかしたら、最悪の場合、相手の口から 

「そりゃ違うよ、あなたの場合は死産でしょ?」

と言われてしまうかもしれない。

いずれにしても、私たちにはそう言っているようにしか聞こえない。

この会話の中で、友人天使ママさんの言葉が今でも私の心に響く−『じゃぁあなたは赤ちゃんの遺体を見たことはあるの? って聞きたい』

そう、本当にそうなんだよね、死産を軽く扱う人に言いたい、あの遺体を見たら、どうおもうのかと聞きたい。

生きた人の死と死産と、一体何が違うというのか。

記憶? 記録?

じゃぁ、私たちのお腹の中で生きていた日々は、生きて生まれない限りはなんの意味も持たないのか?

記憶に残してもいけず、記録にすら残されないことなの?

戸籍には残せなくても、位牌には残してくれてもいいじゃない。

和尚さんは法要の後、ご自身の親も、幼い頃に二人のお子さんを亡くしていて、要するに自分にも亡くなった兄が二人いるのだと話してくれた。

「人は必ず、意味をもって生まれてくる」

と話された。

それはありがたいことなのだけど、私は意味がなくてもいいから、琴子には生きていて欲しかったとおもうこともある。

意味のない命はないというから、生きていても死んでしまっても、琴子の命には意味があったわけだけど…でも、これは死産だって同じことなわけで、お話と位牌が矛盾しているぞ!!!! と、ちょっとおもっていたまま、新しい位牌を胸に、無事に家に着いた。


もしかしたら私の不満は、

「戸籍に載ったので、お位牌に直すべきことがあれば…」

と相談した段階で、

「いえいえ、死産も新生児死も同じですから、そのままそのお位牌を大事にしてください」

と言われなかったことから始まっていたのかもしれない。

私の中にある矛盾も認めつつ…