自分で自分をいつの間にか、洗脳してしまう…

先日、助産院から緊急搬送され、総合病院で出産したというYさんからメールを頂きました。
結果的に母子共に無事なお産で良かったです。

私がこれから書くことは、被害例といったものではないと思います。 何せ、子供は無事に産まれ今のところ問題なく育っています。自分自身も心身ともに傷つくことは ありませんでした。
でも、今こちらのブログを拝読するにつけ、「もしもあの時○○だったら・・・」と考えずにいられないのです。
“たら/れば”の話ではありますが、助産院から搬送された人、つまり助産院でトラブルが起きたとはカウントされない人の実態の一つとしてお聞きいただければと思います。

私は特に自然志向という訳じゃありません。
助産院を選んだ理由は、母親の出産の話が壮絶で、(意地の悪い病院で大難産、痛いわ精神的に辛いわで脱走したという話)
小さい時から繰り返し聞いているので大病院での出産が怖かったんです。今そんな病院はないだろうし、病院での出産が特別悪いものではないのは頭ではわかってたんですが近くに助産院も病院もある恵まれた環境で、「消去法で」怖くなさそうな助産院を選びました。自宅から4駅ほどのところですが、慣れ親しんだ地元なので精神面に良いのではと思い選びました。

陣痛も起きず痛くもなく何も辛いところはなかったのですが、子供の心拍音が不規則になっているとかで私は「搬送になるのかな」と思いました。その時、おなかの横で助産師さんが必死に小さな瓶を何本も振っていました。
そうです、ホメオパシーのレメディです。たぶん、「胎児と波動が合っていれば何か反応がある」というようなマッチングテストをやっていたんではないかと。
当時はホメオパシーについては詳しく知らないもののなんとなく副作用もないし効くって噂だし、という程度で「それってホメオパシーですか〜?」「そうですよ」という会話をした記憶があります。
飲まされたかどうかは記憶にないんですけど。欧州が好きでよく旅して てホメオパシーの存在は薬局にあるものとして昔から知ってたんで抵抗なかったんですね。

今振り返ると「早く搬送して!」なんですが、当時は助産師さんに何もかも任せればいいのだ、この人はプロなんだ。お医者さんにはわからないことも体験してるんだ。そう思ってたんです。
妊娠中に読んだ本や雑誌などで「ぎりぎりまで待つ」「大丈夫赤ちゃん
にはその力がある。」「出てきたい時に出てくる」と予習してましたし。

院長先生が見に来て、提携の産婦人科に連絡、大学病院に搬送しましょうという話になったようで、ひどくなる前に救急車で搬送され、近くの大学病院で出産しました。安産でした。
病院についてすぐ看護婦さんが飛んできてくれて、氷の入ったお水をストロー付きで渡してくれて(絶対に冷えたものを口にするな、という教えだったのでその差にびっくりしました)体を温かい沐浴液でやさしく拭いてくれたり患者というよりゲストと いった感じで扱っていただき本当に驚きました。
助産院からいらしたんですね。色々と勝手が違いますよね、何でもおっしゃってくださいね」と優しく声をかけていただいたのに、その時は病院へ迎えられた安堵感と同時に「ああ助産院で産めなかった」という残念な気持ちもあり「こうなったら病院でもいいです、お世話になります」という心境でした。

なんでそんな意識になっちゃったのか。最初は消去法で選んだだけだったのに。

考えれば考えるほど色々と理由が浮かんできます。助産院では食事や生活習慣についてかなりスパルタでした。院長は静かで頼れそうなカリスマ的な雰囲気があって「この人に怒られたくない」「ほめられたい」といった気持ちがあったんだと思います。
臨月まで頑張ってやってきた、こうなったらなんとしてでもココで産みたい、そんな心境だったのではと。
特に自然志向の人はその傾向は強いのでは?
「今までの人生、食べ物に気をつけて人工的なものを避けて生きてきたのに」「今さら妥協できない」となりそうです。

そして出産に関する色々な本などの知識。「自然なお産はすばらしい」・・・いつの間にか助産院で産むことが、まるで志望校に合格したい、という感覚になってしまっていました。試験勉強の代わりに体作りをせっせと頑張り、院の方針には従うつもりでいる訳です。

助産院のセミナーでもサポートする病院の先生などがほとんどのケースは無事に出産できると証言してましたし。
そこで出産した人も体験談を語ってて。助産院で産めることを楽しみにしていました。
たまたま無事だったからそこで産めて、体験談も語れる、そんな簡単なことも気付かずにいました。一度信用すると「助産院で出産するリスク」なんてのは耳に入らないです。「それはお医者さん側の考え方でしょう」となってしまうわけです。
今私がここまで反省できるのは時が経ったからです。

「子供にもしものことがあったら?それはそうなるべき命だった」という考え方、もしかしたら持っていたかもしれません。そんなことは自分には起きないと無意識に、しかし強く信じていたからです。誰も悪者にしない一番楽な考え方ですからね。

病院に搬送される際「どうなったか絶対連絡してくださいね」と送り出されました。出産後電話しました。「赤ちゃんの首にへその緒が少しかかっていたみたいです。巻き付いてた訳じゃないんですけど。」
「そう、無事に産まれて良かったわ。破水したのはきっと赤ちゃんが教えてくれたのね」
といったことを言われました。本当にその通りだと思いました。助産院の方も心から安心しておっしゃってくれたと思います。
でも・・・
耳あたりのいい言葉だけど、もし無事に産まれてなくても「赤ちゃんが選んだ道」とか言えてしまう魔法の言葉でもありますね。

この場をお借りして、医療従事者の方々にはお詫びと感謝の気持ちを申し上げたいです。
こちらのブログで初めてこんな自分を暖かく迎えてくださった病院のありがたさがわかりましたし、助産院の尻拭いをさせてしまった申し訳なさも感じました。このご時世ですんなり病院に運ばれたのもとてもラッキーなことだったのだと思い知りまし
た。

病院でのお産だって100%の無事は約束出来ないことです。
ただ、助産院や自宅からの搬送(搬送してもらえるだけでも羨ましいともいえますが…)の場合は酷い状況になってからのケースが多いという意見も出ています。
Yさんの場合も、院長がいなかったりしたら、もしかしたら「もっと様子をみよう」となっていたかもしれません。ギリギリまで待つって、よく聞きます。
それは「赤ちゃんの声を聞く」とも表現されたりしていますが、ギリギリまで待って最悪な結果になるっていうことは決して少なくない事実だとおもいます。
また、酷くなる前だとしても搬送を考えるよりも先にホメオパシーという、残念な状況もあったようで、そのレメディを飲んだか否かが問題ではなく、“場合によってはそれで様子をみようとしている”という思考が問題だとおもいます。
山口県の件があって今は改善(改心?)されている助産院なのかもしれませんが、私としては助産師会がレメディの選択を親の責任としたことについては「これでもですか?」と問いたくなるお話でした。
母子が無事ならいいじゃない!ってことではないでしょう?

Yさん、有難うございます。
Yさんはご自分のことを冷静に分析され、自分で自分を洗脳してしまうような問題があるということも仰っています。
その通りですね。
具体的に洗脳を受けるということもあるけど、やんわりとじんわりといつしか自分を洗脳してしまっているようなこと、あるかもしれません。
「ここまで頑張ったのだから」という意地は、子供が無事であることを願うことから生じるものであるべきですね。