伏見さんの論文が出ます

昨年、【産屋と医療―香川県伊吹島における助産婦のライフヒストリー】を発表された伏見裕子さんから、新たなる論文の発表が決まったとご連絡を頂きました。

要約文
戦前期の漁村にみる産屋習俗の社会事業化 ―香川県「伊吹産院」を中心に―
伏見裕子

これまで、戦前の出産施設を主題とした研究は殆ど行われてこなかった。病院や産院といった出産施設の普及により、出産習俗は一掃されたと思われがちだが、香川県伊吹島では、デービヤと呼ばれる産屋が社会事業(社会福祉)の産院として助成金を得、1970年まで使用された。本稿は、戦前の社会事業行政と産屋習俗の関係を考察し、産院の有様の一端を明らかにすることを目的とするものである。
 明治五年太政官布告第五十六号「自今産穢不及憚候事」以降、ケガレを避ける場としての産屋を正当化できない時代になり、全国の産屋は次々と姿を消していった。一方、大正期に入ると、高い乳児死亡率に危機感をおぼえた政府が貧困者向けの産院設置を奨励し、社会事業としての産院が普及し始める。そのような状況のなかで、一部の産屋が住民や医療者によって、社会事業あるいは産院の起源と見なされることもあった。戦前の伊吹島には産科医も産婆も不在であったが、デービヤは、網元などの有力男性たちによって「伊吹産院」と名付けられ、「古来より伝はる良風」と表現されて1929年度に恩賜財団慶福会から助成金を得た。
1930年代になると、昭和恐慌に喘ぐ全国の農山漁村に対して、行政は「固有ノ美風タル隣保共助ノ精神」に基づく「自奮更生」や「相互扶助ニ依ル社会施設」の振興を求め、「伝統的」な倫理や社会組織を評価するようになる。デービヤは、「上古よりの風習其の儘」が「現時に於ける社会事業施設」になっているとして高松宮関係者から高く評価され、産院として「選奨」された。また、内務省が発行する産院の一覧表には、欄外にわざわざ「香川県伊吹産院ハ出部屋ト称スルモノニテ室町時代ヨリ文献アリト云フ」という注がつけられる。厚生省初代児童課長は、「伊吹産院」が「室町時代」からのものであることを根拠に、「産院の歴史は相当古」いと述べた。
医療者による出産介助を受けられるわけでも、特別な設備があるわけでもなかったデービヤが産院として認められることになったのは、社会事業行政が産院の由緒や「隣保共助」に基づくあり方を欲していたからであると思われる。社会事業行政は、出産習俗を排するばかりではなく、時に習俗のもつ「伝統」性を利用してきたのである。
 一方、デービヤが産院として皇族や行政の認知を得た後も、漁師を中心とする男性島民たちは、フナダマ信仰と関連づけるかたちで女性のケガレを忌避し続けていた。褥婦たちはデービヤでの静養生活を楽しむことが多かったようであるが、彼女たちやその家族の意識からケガレが消え去ることはなかったのである。島の有力男性がデービヤを「社会事業」や「太古ヨリノ」「衛生上尤モ適切ナル習慣」と公言したことは、皮肉にもケガレ意識が温存された一因になったといえるのではないだろうか。

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http://www.jca.apc.org/wssj/
11月30日発刊です。

一方、大正期に入ると、高い乳児死亡率に危機感をおぼえた政府が貧困者向けの産院設置を奨励し、社会事業としての産院が普及し始める。そのような状況のなかで、一部の産屋が住民や医療者によって、社会事業あるいは産院の起源と見なされることもあった。

産屋(うぶや)に対して一般的には、伏見さんが説かれるものより、例えば“糸島産屋プロジェクト”のようなイメージを抱かれている方の方が多いのではないかとおもいます。医療は不要だという感じが作られているような気がするんですが、実際は医療へと救いを求めていたものではないかと、私は伏見さんの論文を拝読するたびに、そうおもえてならないのです。実際に通常医療を受けられない出産で子どもを亡くしたからこそ、そう感じるのかもしれません。

発刊を楽しみにしています。今後のご活躍を応援、期待いたしております。