「昔」と「感動」

助産院や自宅出産に限らずですが、出産を語るときには「感動」を使われる頻度が高いように感じています。これは「いいお産」を指しているとおもわれますが、いいお産は「昔のお産」として捉えられている方達もいるので、なんとなく「医療の介入しないお産」と、心のどこかで限定されているようにもおもうのです。

刷り込みとは恐ろしいもので、病院での出産に対しては「医師がする行為には常にイエローカード」的な先入観を持つようにされているので、病院での話をすると、「ほら、やっぱりそれって問題の行為」と簡単に思考が働きます。自分に経験がないのに、「病院には、医師には問題の行為がある」と決めつけているのです。不要な医療介入だったのかどうかを精査せずとも、介入する医療行為の大半は不要なものだと思う方が早いものなのだと、患者側同士で話せばすぐに感じられます。

原子的原始的なお産こそが感動できるお産だ ー そう思っている方も少なくないとおもいます。でも本来、お産は退治胎児が無事に世に出て、産声をあげて、そして一緒に家に帰れれば感動できるお産のはずなのです。「感動できるお産」を語るのであるならば、感動できないお産の具体的な話も聞かせて欲しいです。

こんなにも頻繁に感動、感動と口にして、そう、感動に飢えているのは何故なのでしょうか。しっくりとこないものを感じます。