親は死んだ子どもの年を数える
10年前に今日の「お祝いの仕方」がわかっていたらのなら、私は病院で産むことを選択していたはずだっておもいたい。「子どもが死ぬのも運命だ」なんてことを今の私が思っていないことを、あの頃の私に知ってもらいたい。あの頃の自分を誰よりも批判していること、軽蔑していることも、何もかもをも産む前の私に伝えたい。
でもそれは今日だからじゃなくて、あの日以来、いつでもそうしたいって思っている。
この世の数えでいえば今日で10歳。
日曜日だった。
助産所を出て、死んだ琴子の亡骸を抱いた私が助手席に座って、「このままどこかに(車で)ぶつかって死なないか?」と琴子の父親に提案したら、「ダメだよ、お葬式を出してあげなきゃ」とかって言われながら帰ったのも10年前の今日のこと。
「食事にも気を配り、母子ともに異常なし」だと「胎児は無事に生まれて当たり前」。そうおもいながらの運命論の中、生き方は産み方とまで言われれば、自分の運命は奇跡に彩られたもので、それに出会えたんだと歓喜し、勘違いしてしまう。
「脳に障害が残るのは不要な医療介入があったからだろう」とか言われれば、病院を避けたくなるのは親として子どものためとも言える。
無事に産んであげられなくて、すみませんでした。