出産階級制度のさらなる実態

ママカーストならぬ出産階級制度!? 分娩に優劣をつけてどうするの?

自然分娩は大きな括りであり、その中にも更なる階級制度がある。
病院<助産院<自宅出産<無介助分娩
いや待てよ、もしかしたら
病院<院内助産院<助産院<自宅出産<無介助分娩
がさらなる実態となった現代。
でも本当は、出産にこそ階級はなく、赤ちゃんの無事をどこまで大事に、優先できるか、ってことだとおもう。
でも、それは幻想となったのかもしれない。
何故ならば、医療が発展して大勢の母子の命が救えるようになったことと、「妊娠は病気じゃない」から始まり「女性の産む力」で終わる自然万歳思想がイコールになってしまい、終いには医療従事者で国家資格を持つ助産師達が、医療介入こそが母子をリスクに晒す行為・選択かのように、助産院や自宅出産で産むような文言が多くなった。
そのような内容が雑誌やブログ、ネットなどで、女性達が出会う多くの情報となってしまった。

この出産階級制度を逆に見ると、安全なのは
病院>院内助産院>助産院>自宅出産>無介助分娩
だろう。
でも、自宅出産よりも助産院の方が安全ともいえないくらいに、助産院にもいろいろなところがあり、設備は一般家庭程度のところもある。そのような実態を知れば、助産師に出産費用として何十万円も支払う(「病院が高い」のではなく、分娩費用が高いのであり、助産院や自宅出産は決して安いとおもえる額ではない)のなら、「妊娠は病気ではないし、女には産む力があるし、自分は健康体で食べ物にも気をつけている」とおもう夫婦だと、助産師に支払うのをせずに済ませたくもなるだろうし、更には、誰をも「凄い!」と言わせられる出産をしたいと、助産師すら呼ばない無介助分娩(プライベート出産とも表現されている)を選ぶ人たちが今、多くなっている。(mixiなどにもコミュニティがあったり、出生届を出すことも含めたマニュアル本のようなものまで出版されている)
私はこの無介助分娩が広まった理由の一つに、助産師達が過度に出産を安全なものだと言って宣伝してしまったことをあげるべきだとおもっている。
決して、産む側だけが無謀なわけではなく、そうさせた原因が「私たちは見守るだけだ」といって、病院から出て産むようにした助産師達の責任があるはずなのだ。
それなのに、そうなると今度は「無介助分娩は危険です」と言い始めた。
もちろん、無介助分娩は危険だ。
でも、それが何故に危険かといえば、誰にでも起こり得る異常の兆候を“素人には見極められないから”ということで、せめて助産師が立ち会うようにと言うのだ。
でも、助産師が立ち会ってその異常を見極めてくれたとしても、それが病院への搬送、緊急時に必要な医療介入に間に合うとは今度は言えないはずなのだ。
それなのに、助産院や自宅出産での分娩を選ぶ方達に「いざというときには病院へ搬送するから」というのを、安全を確保したような印象を持たせて言っている。
本当は違うはずだ。
やはり、すぐに緊急帝王切開や医療介入ができないことは危険で、自然分娩で産むことを祈るのが母親の役目ではないはずなのだ。
子供の安全を祈るのが母親の役目であり、そして、その子供が産まれた後、少しでも育ちやすいためにも、家族のためにも母親にもリスクの少ない管理や出産をと願うのが家族や、その周りの方達の祈りであるのではないだろうか。
実際に、私は自分の娘が助産院で死んだときに、自分が元気なことを呪った。
ちっとも嬉しくないし、もしもどちらかが死ななければならなかったのならば、それは娘ではなくて、私でありたかった。
多分、それは第一子の出産であるから、子供を残して逝くわけではないからこそ、簡単にそうおもえただけかもしれない。
上に兄姉のいるお産であれば、一人の子供の無事だけを祈るわけにもいかないのかもしれない。
自分の子供の死を通じて、医療従事者の方から教わった多くのことの中に、「母体を優先させる」ということもある。
死を通じて考えると、何を求めて、どのような結果が正しかったのかは簡単には言えないとおもった。
だからこそ、母子共に安全であることを素直に祈るべきであり、そして、それでもやはり、もしもまた私はどうしても母子のどちらかをとなれば、子供の葬式をもう一度出さなければいけないくらいならば、やはり先に死にたいとおもう。
そして、このことを話すと、今度は子供に障害がある方のご意見が私の心を苦しくさせた。
「子供の葬儀を出してから、その翌日くらいに死にたい」というのだ。
なんという母親の切ない愛情だろうか。
子供は必ずしも親の願った通りではない。
そして、時には出産により、子供に障害が残ってしまった方達もたくさんいるということも、これも私たちが決して忘れてはならない実態なのだ。
だからこそ、どんな結果をも受け入れるべきだというのならば、子供が少しでも安全に、そして生きやすいようにして産まれてきてくれと願い、その結果に近づけるように分娩場所を選ぶべきなのではないだろうか。
そこにいきなり、「医療介入による事故の例」ばかりをあげ、そのような話しを鵜呑みにした私が結果、助産院で産んで死んでしまった子供の話しをこのようにしていると、「いつまでもひきずるな」と言って、実態を知られないようにするのが助産師の方達の願う、母子の安全へのための働きかけなのだろうか?

このような記事を読む度に、いかにしてくだらないことに固執して私が子供を死なせてしまったのか?を思い知らされる。
産み方は生き方ではなく、女性に産む力があるとうぬぼれず、人の力を借り手でも子供を安全に産みたいと、そう願い合える関係を社会全体で築いていただけたらと願っております。