幸せを失った夫の涙

当たり前だよね、娘が死んじゃったんだもん。

あんなに楽しみにしていたのにね、やっとお腹から外に出てきたのにね、琴子は死んじゃったんだもんね…あんなに楽しみにしていたのにね。

こんなこと、想像していなかったよね。

泣くのは当たり前だよね…


出産後、誰もが思い遣ってくれるのが産んだ私の身体のこと。

私は栃木に住んでいるけど、実家は他県にあるので、出産後は琴子と一緒に里帰りをする予定にしていた。

実母が何度も

「あんただけでも一緒に帰る?」

と聞くのだけど、私は琴子の遺骨と離れる気にはなれないし、

「琴子ちゃんのお骨を持って、実家で静養してきたら?」

と言ってくれる人もいたけど、それじゃぁ夫があまりにも悲し過ぎる。

私は家を離れたくなかった。

夫と琴子と私が家族であって、ここから外に出ることは考えられなかった。


しばらく私達の家に実母がいてくれたのだけど、最初は私を実家に連れて行くと言っていたのに、徐々にその言葉が変わってきた。

「N君(夫)を放って置くことが出来ないね」

当たり前なのにね。

世間て怖いよね、どこかでお産のリスクやトラブル、結果は母親だけが抱えるものっておもっているんだよね。

だから父親の気持ちを考えてくれる人なんて、殆どいなかったんじゃないかな。

皆、夫に私を支えるように言う。

じゃぁ、誰が夫を支えるの?

誰に頼まれなくても、私達は支えあうよ。

だって、それしか方法がないじゃない。


夫は琴子の誕生をずっと楽しみにしていた。

妊娠前から、子供が欲しいと言っていたし、少し妊娠し難い体質だった私のために、身体に良いことを聞くと、一緒に取り組んでくれていた。

妊娠してからもとてもよくしてくれた。

自営業で家にいる都合の良さもあって、私がちょっと疲れたと言うと、すすんで家事や炊事、なんでもやってくれていた。

悪阻で偏食になっていたときも、私がご飯の炊けるときの臭いで吐くと、次からはご飯を外で炊いて、玄関で食べてくれたり、書き連ねたらきりがない。

安定期に入り、お腹が大きくなると、今度はより具体的に、お腹の子のために動いてくれるようになった。

そのうちの一つが毎日、必ずお腹の中の琴子に向かって絵本を読んでくれることだった。

私はそのうち先に眠ってしまったりしていたんだけど、どうやら父親の声に反応していたらしく、夫はその反応を楽しみながら、毎晩必ず絵本を読んでいた。


夫が琴子に読んだ最後のお話しは、鯨のクーちゃんのお話し。

なんだかちょっとおかしな話だったから、「クーちゃん、おかしいよね」って、笑いながら眠り、翌日に陣痛が起こった。

クーちゃんの話が特別に面白かったわけではなかったのだけど、眠りにつくまでの間に

「またクーちゃんを読んでもらおうね」

と言ったのを覚えている。

勿論、今度は外に出てきた後にねって。


あの日の私達は、2005年の9月26日の今日も、きっと琴子に絵本を読んで寝かしつけていると想像していた。

「生まれてもさ、毎晩、絵本を読んであげてよ」

って言えば、

「おう!」

と、楽しみでお腹が一杯になったかのように、嬉しそうに、満足して返事をしていた夫。

その全てが奪われちゃったんだ。


琴子を家に連れて帰ってきて、二人で琴子を抱きながら、お互いの写真を撮った。

辛かったけど、今しておかないともう出来なくなるって、きちんとわかっていたから、何枚も撮った。

そのときに琴子に着せていたのが、琴子が生まれる前に夫が編んでおいた手編みのチョッキと靴下。

とっても可愛く出来ていた。

夫は編物が得意だから、真夏に生まれる琴子には必要ないよって私が言っていたのに、「いいんだよ、ちょっと寒い日に着せてやるんだから」って、昼食後、夕食後にはせっせと編んでいた。

それがまさか、娘を棺に入れるときに着せることになるなんて。

でも、編んでおいてくれて良かった。

私の言葉通りにしていたら、凄く後悔することになっていたし、何よりも琴子には凄く似合っていた。


自分が編んであげたチョッキを着た琴子の前で、夫は号泣した。

泣き伏せて、何度も何度も…可愛くて抱き締めていたいけど、ドライアイスで包んでおいてあげないと、琴子がどんどん腐ってしまうんだよ…ねぇ、わかる?

自分の子供が腐ってしまうんだよ…それでも抱き締めていたいよ、自分も一緒に朽ち果ててしまっても構わないから抱き締めていたかったよ…たまに琴子を抱き締めると、ちょっとずつ臭いが変わってきていたから、結局抱き締め続けていたのと変わらなかったかな。

「チョッキ、似合うね、可愛いね」

って言うと、夫は嬉しそうに笑っていた。

そして、また泣くしかなかった。


今でもときどき、夫が最後に読んであげていたクーちゃんのことを思い出す。

クーちゃんとは一晩きりのお付き合いだったのに、

「クーちゃんはどうしているかな」

なんて、その絵本は借りていたものだから、手元に何も残っていないのに。

クーちゃんは琴子でもあるのかもね。

琴子が大好きなお父さん、そのお父さんが読んでくれた最後のお話がクーちゃんだったからね、きっと琴子がもう一度読んで欲しいっておもっているのかもしれないね。

でもね、琴子、まだ無理だよ。

お父さんはまだ読めないよ。

リンズに時々絵本を読んでいるのを知っているよね?

きっと一緒に聞いているよね?

琴子は気が付いているかな?

お父さん、絵本を読んでいると、必ず一度は泣きそうになっているでしょ?

涙を堪えながら読んでいるでしょ?

だからね、クーちゃんのお話は余計に無理だよ。



琴子が生まれ変わるおうちがわかれば、クーちゃんの絵本を届けるんだけどな…