おめでとう。

昨日、久々に友人に会った。

彼女は去年の秋に第一子を出産していたのだが、それは知っていたのだけど、お互いに風の便りに聞くばかりだったので、私もわざわざ連絡をすることが出来ずにいた。(無愛想でごめんなさい…)


久々に会った彼女の腕には、可愛らしい赤ちゃんが抱かれていた。

「凄い難産だったんだよー」

と、お産の経緯を簡単に話してくれた。

隣町の開業医での出産を選んでいた。

「予定日を2週間近く過ぎていたし、分娩台の上にのってからもなかなか出てこなくて、6時間後に切ったんだ」

とのこと。

吸引分娩も6回したそうだ。

それでも子供は出てこようとしなくて、心音も下がってきた為、当初は帝王切開をしたくないと希望していたのだが、彼女も決心し、帝王切開に切り替えて、無事に子供は出産、母子共に今は健康な日々をおくっている。

お産はもう勘弁と笑って言いつつも、

帝王切開から2年経てば、経膣も可能」

と医師から説明を受けていると言っていたから、今度はVBACを考えるのかもしれない。

私はひたすらに

「無事に生まれてくれて良かったよね、本当に良かった」

と、琴子のときに自分が選べなかったお産、結果を重ねて想うばかり。

彼女が帝王切開を悔やんでいる様子でもないし、私が特別多くを語ることもなかったけど、彼女の腕の中で可愛らしい笑みを浮かべる赤ちゃんの笑顔を見ていると、無事に生まれてくれることの尊さをより強く感じ、琴子への感謝の気持ちも強まる。


私が琴子のお産のときに、もしも助産師が正しく指導し、選択をしていたとしたら、あの偏った知識のままで、いくら「いざとなったら病院」という覚悟をしつつも、『お産に医療は不用意』という意見が多い中で、どれほどの間違った後悔をしてしまっていただろうか。

どこまでもいつまでも、「もしかしたら自分は下から無事に産むことが出来たのではないか」と、感謝よりも不満を抱きっぱなしになっていたかもしれない。


私の友人や知人、親戚の人の多くは、琴子のことを忘れていくのだろうとおもう。

既にそう感じることも多い。

琴子が皆に挨拶を出来ずに逝ってしまったからかもしれない。

そして、もしかしたら人の記憶の印象には残らない結果を琴子自身も望んでいたのかもしれない。

忘れないでなんて言わない。

言いたくても言えない。

でも、出産がときには母子の命を簡単に奪うことがある、お産は手技にこだわることではない、無事に産むことを第一とするのが素晴らしいお産なんだってことだけは忘れないで欲しい、知って欲しい。

『おめでとう』って言われることのないお産があるってことを、忘れないで欲しい。