お彼岸
もう数日前になってしまうのだけど、琴子の眠る墓前へ…
冬の間にはなかなか行けないので、毎年、春が待ち遠しくなる。
琴子に会えるっていうのはなかなか実感し難いことなのだけど、「来ることが出来た」という自分の中での達成感・満足感があるのか、ホッとする。
お墓もしばらく行けずにいれば、冬でも草はいくらか茂り、それなりに時間をかけて、やりがいのある掃除をする。
今年のお彼岸は義両親も一緒に行くことになった。
お墓に植えてある樹木の『サルスベリ』の枝を落とす必要が出たからだ。
正直、琴子のことではあまり良い感情を抱けないままの義両親と同行することには抵抗感があったのだけど、琴子の眠る地を綺麗にするということで、嫌な思い出には慣れない蓋をすることにした。
といっても、車は別だから、まだマシなんだけど…
お墓について、色々と作業をしていたら、ふとしたときに義父が
「生きていたらいくつなんだ?」
と言った。
祖父なんだから、それくらいまだ覚えていろよって言いたい気持ちもあったけど、ま、そりゃ無理だな、義父は『闇に葬る』発言の人だったから。
「生きていたら、4歳になりますね」
そう、生きていたら4歳。
私は『死んだ子供の年を数える』から、今年の8月には琴子は4歳になる。
琴子の年を聞いてきたけど、それ以上に話を続けるつもりもないみたいだし、でもなんとなく切ないから、
「琴子が生きていたら、リンズが生まれていたかはわからないし、そう考えると不思議なんですよね」
と言ってみた。
何も期待していたわけではないし、期待しなかった通りに、そのまま義父は何も言わなかった。
悲しそうでもなんともない、ただ聞いただけという感じだった。
想像したくはないけど、もしもリンズが死んでしまったら、義父は狂ってしまうだろう。
こんな穏やかなお墓参りは出来ないだろう。
琴子のお墓にはチューリップの可愛い花束を供えた。
菊も嫌いじゃないけど、やっぱり可愛らしい花をあげたい。
天国にはもっと可愛い花が咲いているだろうし、どんな花でも喜んでくれるってわかっているけど、選ぶときに、買うときに、私がなんとなく嬉しい。
琴子の墓前に供えたお饅頭とおにぎりをリンズが食べたがって、お参りが終わるまでカラスに狙われないようにと、一生懸命になっていた。
その姿を見て、義両親は「可愛いねー」と嬉しそうだった。
琴子が生きていれば、3歳半にもなる琴子が生きていれば、きっともっと「可愛いね」「面白いね」の声が響いていたのだろう。
そう想像してグスンとしてしまう今を、決して不幸だとはおもわない。
私なりに幸せな日々を頂いていると感謝している。
でも、寂しさや悲しさは抜け切らない。
お彼岸にお墓参りに行き、ご先祖様たちにご挨拶をして、その中で
「琴子がお世話になっています」
とお礼を言う。
いつも家に一緒にいるとおもいながらも、琴子の墓前では
「また来たよ」
と言う。
我が家はずっとこのままなんだろうと感じる。
今度はいつ行けるのだろうか。
初夏の頃かな。