天国も秋ですか?

以前に朝日新聞に掲載された、父親を亡くした小学生の詩です-
天国はもう秋ですかおとうさん
この詩を最初に目にしたのがいつだったのか、もう記憶は正しく残っていないのですが、毎年、秋がくるとこの詩を何度も何度も、心の中でつぶやいています。

栃木は紅葉が綺麗なことでも有名です。
琴子が死んでしまった年の秋に、確かあれは11月3日の祝日だったんですが、その日は特に予定もなかったので、「琴子のお墓に行きたい」と私から言い出しました。琴子のお墓は家から車で3時間近くかかるところにあります。朝出ても、渋滞で何時に着くかわからないと言われながら、「夕方ならその時間の琴子の生活を見てみたい」と、より強くお願いして出掛けました。
紅葉狩りの渋滞は想像以上で、琴子のお墓に着いたのは夕方をとっくに過ぎて、月明かりを有難くおもう頃でした。それでも琴子のお墓はいつでも綺麗な紅葉に囲まれていると感じられるほど、周囲の山が綺麗でした。そして、その綺麗な山にしか囲まれていないことが悲しく、一緒に暮らせない現実や、一緒に眺めて語り合えることのないその先の日々を痛感させられるばかりでした。

親になろうとしている者が、その過程を支えるとしている方たちが、自分のためだけに考えたり動いたりすることの、どこに誇りを持てるというのか。
子どもが死んでしまい、その景色を天国でも見ているのだろうかと想う親に、『運命だった』と酔いしれて憧れるというのか。

助産師の行為が本質から逸脱しているのではないか? その疑問に対して真っ当に対応できない開業助産師の方たち、その支援者たちには落胆するばかりです。あの手この手で誹謗中傷してくださる、それは貴重な時間を私のために使ってくださっていることの証なのだと感謝しますが、その時間がもったいないことだともおもいます。助産院や自宅出産で子どもが死んでいるという事実、脳死・植物人間となって今を生きているお子さんのお話し、母体に激しく損傷が残ったことなどこそを、きちんと語って改善する時間に使っていただけたらと、そう切に願うばかりです。


琴子の見ている秋の景色は、私が見ている景色よりもずっとずっと綺麗なんだとわかっています。だから、少しは「ここより幸せな場所にいるんだから」と安心したりもしています。それでも、そこには私が先にいって待っていて、琴子があとからゆっくり来てくれれば良かったわけです。

琴子が死んでから今日まで、私の中でも固まってきた意識をきちんと言葉にするのならば、『もう、親の目線だけで妊娠や出産を語るのはやめるべき』です。