完全母乳育児促進の問題

mamさんからも書き込みありましたが、実は肝ったママ’sの代表さんからお誘い受けていまして、

ここに書き込むことかどうかわかりませんが、お知らせします。
カンガルーケアや完全母乳等による低酸素脳症被害者の会が、
東京で患者家族の会を開催するようです。
2012年6月2日(土) 13:00〜17:00 中央大学駿河台記念会館
http://kc.xrea.jp/2012/04/18/tokyo/#more-239

に本日、私も参加しました。
表題からも、カンガルーケアの問題が先にありますので、そちらが主ともいえるものですが、丁度、ふぃっしゅさんがブログで完全母乳という言葉を問い直す 18 <ミルクを足すことへのとまどい>と書かれていましたので、今日は完全母乳育児の方への感想を書こうとおもった次第です。

私も、最初は母乳の方が良いと固執する側だったとおもいます。琴子を産む頃なんかは、もう完璧なまでに【人工乳は悪だ】と信じ込んでいました。でも、そういう考え方は、琴子が私から抜き取るようにして持って行ってくれたらしく、今では「最善な結果であるべき」とおもっています。だから、人工乳を否定する気持ちは今はありません。
ふぃっしゅさんのお話にあるような方や、コメントにあった方を苦しめているのも、私たちだとおもっています。そう、今日の何よりの感想は、病院や厚労省だけの問題じゃないってことです。

(すみません!)一旦、落ちます。戻り。


厚労省の異常さは数名の方からそれぞれのかたちで伺っています。
厚労省の中では助産師の地位は無敵らしいですね。私たち一般人が生活している範囲ではそういうことを感じるのってなかなかないようなことだけど、こうやって妊娠出産を知っていくと、助産師の方たちがどうしてこうもやりたい放題なのか、これだけ医療事故として騒がれる時代に何故、助産院や自宅出産のようなハイリスク以上の分娩方法が許され、更には「オススメエリア」的な扱いを受けられるのか、助産師が気に入る人、仲良しな人、物はどんどんと世に浸透していくのか、厚労省でのことを知ると、合点のいくことでもありますね。
母乳については特に、そういう力は強いですよね。勿論、母乳が出て育児に苦痛になることがないのなら、誰だって母乳でいいわけですよね(VK2は飲ませる、ということを知っておくべき)。でも、それが今は「母乳じゃなきゃダメ」ってなっていて、病院によっては、母乳が出るために必死に協力してくれるのが最終的には母親を追い込んでしまうっていうこともあるみたいですが、でもこれ、私たち産む側が

母乳じゃなくても平気です!

って言ってしまえば良いんじゃないか?
もしかしたら、病院側も多くの母親が母乳で育てたいとおもっていることに協力しようとおもっているような、そういう些細な誤解がお互いにあって、実は誰しもが

なんで母乳じゃなきゃダメなの?
っておもっていることを言えなくなってしまっているところもあるんじゃないかな?
っておもいます。

そりゃ、経済的にはいいですよ母乳は。お金は掛からないし。手間掛かることもないですよね、人工乳のように消毒を気にしたり、温度調節するために計画的にあげなきゃだったりと、私は母乳よりも深い愛情の表れだとおもうときがありましたよ。最近も、一生懸命に用意しているママ友見ていて、私は雑だから「そういうことできないかも」って言ったら、
「子どものためっておもえばできちゃうんだよ」
って言っていたんです、そういうことをママ友が。

完全母乳こそがと言い張る、思い込む方はパターン化すると、ホメオパシーやマクロビにはまってしまう傾向があるとおもいます。助産師の方たちにもいましたね(正しくは現在進行形ですかね)。
「これじゃなくちゃダメ!」
という意識は、自分以外にも押し付けてきます。友達に自分の考えを押し付けて、時に、それに反する友達を叩くかのようにして、「だからミルク飲ませている母親はダメなんだよ」みたいに言ってしまったり。そういう自分を鏡で見たら、どうおもうんだろうなぁ。「自然体で素敵!」っておもうのかな?

母乳信仰で追い込む助産師の暴走をどうにかしたいけど、それよりも先に、私たち産む側が「なんでそんなに母乳じゃなくちゃダメだって押し付けるの?」と、問題を知ることで防御していく方が重要におもいます。なかには医師の方たちも、今までは私たち産む側が望んでいたことだとおもって付き合ってくれていたけど、人工乳でも本当は良いのにねと、追い込むような結果を生まないようになってくれるのではないでしょうか。

完全母乳じゃなくちゃいけないなんて、母乳が出ないのは母親としての自覚や生活、食事が悪いからだというような酷い刷り込みを受け付けないようにしたいですね。

こういう問題は、私たち産む側も作り出した問題だってことを自覚していくべきだと痛感します。
私たちが望むものが何なのか。