「子どもが無事なら」と、何度でも同じことを言うしかない。

某場所にて、ある女性の方がお子さんの成長を見て思い出すのは、その子を水中出産をした時のことと語っていました。ネットで情報を共有する場だったので、その方のお友達の女性は「私は病院での陣痛促進剤から帝王切開という経験しかなくて、楽しい思い出がない」「羨ましい」というような発言になっていました。悔しいです。じゃぁ、私は「水中出産(助産師の自宅の衛生なんてまるっきり無視の、自然の極み?)もしましたし、畳の上で産みましたが、子どもは死にました。生んでいる時だけは楽しかったかもしれない」とでも書き込むべきなのでしょうか。


バカバカしいです。最近の私たちはおかしい。なんで出産で「楽しい」とか、「気持ちがよい」とか、「こういう産み方をした」とかっていちいち言わないといけないのでしょうか? そもそも、最初にわざわざ「水中出産したときのことが懐かしい」と言ってしまう方も、自慢したい気持ちがあるんでしょうよね。もうそういうのが私たち女のくだらなさの表れのような気がしてしまう。


気がついて欲しい。「病院で陣痛促進剤から帝王切開」になったということは、お子さんにも相当な危険が迫っていたからではないでしょうか? 
そのお産でお子さんが無事だったという、そして母親も数年経って、元気だからその回想が出来ているということに、素直に感謝するべきではないかと。なんでその気持ちや必要性がが私たちに伝わってこないのか。その方自身がきっと、「場所さえ違えば、経膣分娩できていたのではないか?」と納得していない気持ちがあるからではないでしょうか。


もはや、水中出産の必要性も理解できない私にとっては「水中出産したよ」に群がるのは誇りに感じられず、子どもの安全性を無視した意識の集いにしか見えない。



「お産は楽しむもの」なのか?
そうじゃない、そうではないのだ、お産は子どもが無事に生まれるのが母親の唯一の願いであるし、周囲の人はその子のためにも母親にも元気に生き残って欲しいと手を尽くそうとするのが、本来の人としての願いだったはずなのだ。昔は母子が出産で死んでしまうことが多かったから、「母子の安全を最優先する」という願いが芽生えたはずだったのに。



「折角だから何かしたい」なんていうのは子どものために発する意識ではない。自分のためだ。