「次を許すな」

銃乱射事件で息子を失った父の、悲痛な叫び「いつまでこんなことを続けるのか」

助産所での問題がなかなか見直されない。情報を一瞬にして大量にばらまくテレビでも、まだまだ助産師のことを「すごい人」と言って紹介してしまったりしている。雑誌とて同じで、結局、広告に頼るマスコミというのは毒にしかならないとおもうようになった。

こういった遺族の声こそを、とおもっているが、大きな力にはかなわなくて、ただ叫ぶだけで終わってしまうようなことが多い。
でも、私たちは常に本気で「次を許すな」とおもっている。世間が次の刺激的な話題に流れていってしまったあとも、私たちはずっと同じことを言っている。しつこくって哀れな人生だとおもわれても、それでも同じことを言い続ける。


私は違うとか、それは一部のとか、もう本当はそういうことではないのです。「私は違うけど、でも、次を許したくないから」と立ち上がってくれる声が多くなっていかないと、それは「私が次でなければいい」と言っているのと同じなのではないでしょうか。それは「次を許すな」ではなくて、「次なら許すな」と言っているだけにしか聞こえない。そうではない、「次は許すな」。誰も被害者になるな、加害者にするな−この父親と私の経験はまったく違うけれども、でも、この父親の心の中の怒りはそのままのようにして、私にやってくる。銃を乱射するな! ではなくて、繰り返していく可能性がなぜ残されているのか? 

あえて医療から遠のく場所で出産するというのは、提携している医療施設があればいいのか? 理解を示している医師がいれば安全なのか? 

日本助産師会があの日、私に誓った「改善」というのは、「次は許すな」であったと期待していたが、実際はどうであろうか。地道に事故のないように改善をしていくことへの力よりも、ホメオパシーの講演会などに力を入れていた時期もあったし、いまだにあやしいものに傾倒していく助産師の話が多い。骨盤位の扱いを許すな! ではなくて、母子が危険にさらされる可能性がなぜ残されているのか? こういうことを真剣に話し合える人が厚労省日本助産師会の中から出てきてくれることを祈らないとならない、この今の状態に問題を感じて欲しい。

「次を許すな!」
本当にそう、そう、次を許すな。