子供を失った夫婦の家の中

私がHを知ったのは、地元の知人O氏がHのところで3人のお子さんをとりあげてもらっている上に、自分(O氏は男性)が臍の緒を切ったと、いっつも言って歩いていたから。

O氏は若い女性を知ると、

「君が妊娠したら、素晴らしい助産師を紹介するよ」

と、所構わず宣伝していた。

私は里帰り分娩を希望していたから、Hのところでは元々産む予定ではなかったのだが、琴子が逆子になり、逆子を直すのが得意だと、『神の手』と言われていると聞いていたので、O氏にHを紹介してくれるように頼んだ。


O氏はHのことが自慢だったらしく、いつもは結構けち臭いことばかりを言う人なんだけど、Hのところに行くと決まったら、

「僕が先導しようか」

とまで言ってくれた。

でもさすがに気を使うばかりだから、それは遠慮して、場所だけを教えてもらった。


そして、逆子が直りそうもないと途中でおもっていた頃、結局Hのところで産むと決めたと報告しに行ったら、

「うん、Hさんなら大丈夫だよ」

としきりに言っていた。


結局、琴子は死んでしまった。

私達はO氏のことをすっかり忘れていた。

Hを選んだのはO氏の宣伝活動のお蔭ではなかったし(少しは影響があったけど)、責める気なんてないというか、人を責めるのって体力のいることだってつくづくおもう、あの頃にそんなこと、考える力なんてなかった。


O氏と私達は同期でいたことはないけど、勤めていた会社が同じだった。

世話になっていた社長に、O氏は直後、

「僕は逆子を直せると紹介しただけで、産むまでは…」

というようなことを社長に言ったそうで、数日後、社長夫人から

「O君がそう言っていたから、あなたたちも気にしていないと言っておいたからね」

と釘をさされた。

正直、ショックだった。

子供を失ったことで何も考えられないでいるのに、人には気を配ることを強いられたような気がして、なんだか惨めだった。

そんなことよりも、もっと欲しい言葉があった。

O氏に対しても、怒りに似た感情が湧いてきた。

ただ、これは言えない。

言っては駄目になると、自分にブレーキを掛けていた。

「はい、かえってO氏に気を遣わせてしまって…」

と、旦那が答えていたのが辛かった。

でも、そう言うしかないよね…


時々、私達を心配して友人達が来てくれた。

とっても嬉しかったけど、帰った後が寂しかった。

皆には普通の生活がある。

この家の中では寂しく思ってくれていても、家の外では違う生活が待ってくれている。

私達はテレビすら見る気になれない。

一緒にいた母に

「テレビでも見てみたら?」

と言われて電源を入れたけど、どうして皆が笑っているのか、どうして皆が寂しくないのか、理由がわからなかった。


実母が帰る日の晩、私は琴子のお骨を抱いて、泣いていた。

「どうしたの? 寂しいかもしれないけど、帰らなきゃだから」

というようなことを言われた。

寂しいというより、悔しかった。

実母はきっと、電車に乗った途端に琴子のいない生活に慣れるというか、元の生活に戻れる。

私にはそれが出来ない。

どんなに眠っても、誰が来てくれても、どんなに泣いて疲れても、頭が琴子を忘れられない。

胎動が懐かしい。

せめて、せめてお腹の中に戻ってくれないかと、一生私は大きなお腹のままでも構わないから…


妊娠したら赤ちゃんに「会いたい」って想う。

出産したら…私の場合、お腹に戻って欲しいって願っていた。

誰かに会っているときにはいくらか楽だった。

でも、皆にも生活がある。

だから24時間、365日、他人の悲しみに寄り添えきれるはずがない。


母も帰って、旦那と二人っきりになり、話すことがどんなことだったのか…いくらかはあったけど、旦那も私と幸せに満ち足りていたこの部屋にいるのが辛かったんだろうね、あんまり居ようとはしなかった。

でも、仕事場にいても寂しかっただろう、家に戻ってくると、前以上に目が赤く腫れていたこともよくあった。


琴子に毎日、手紙を書いていた。

それを折鶴にして、お墓に持っていった時に、お寺の住職さんに渡していた。

あの頃は琴子に手紙を書くのが一番楽しかった。

「文字が読めないかもしれないけど」

から、

「ひらがななら読めるかな?」

とか、そんな感じで旦那と笑い合ったりもしていた。

懐かしくもあり、寂しくもある思い出。

あの頃は折り紙を買うのが楽しかったな。

琴子に通じているような気がして、やっこさんとかも折っていたな。

一日中、書いていたこともある。


とにかく琴子に会いたい。

リンズもいてくれて幸せだよ、でも琴子にもいて欲しい。

この家の中にはずっと、失われたものがある。