琴子への想い

琴子の名前が何処かに行かないように、琴子への想いが違う場所へ行かないように。

リンズが生まれて、近くの人も遠くの人も、大体の人が琴子の話をしなくなりました。

これは一見すると、我が家に幸せがやってきたからってなるのかもしれないけど、意外とそうではないのです。

この複雑な気持ちは、多分、同じようにお子さんを亡くした方にしかわからないことだとおもいます。


今でも不意をついて、涙が溢れそうになることがあります。

これは、もう癖のようなものなのかもしれない。


何かで幸せの象徴ともいえるようなものを目にしたとき、幸せで目に涙が滲むこともあるでしょうけど、私の場合は琴子以来、淋しさで滲むのです。

『琴子はいつでも私達と一緒だから』って言えるけど、心のどこかで『琴子の姿がない』ことを認め、地上ではない、同じ位置にいないことへの寂しい気持ちがずっとあるのです。


「こんなに素敵な景色、琴子にも見せたかったね」

と、主人に言ったことがあります。

その場にはもう一人、知人が居合わせていて、私の言葉を聞いて

「琴子ちゃんも見ているよ」

って言ってくれました。

それは大前提なのだけど、正しく言えば

「こんなに素敵な景色、私達の腕の中で、琴子に見せたかったね」

なのです。


庭の花が咲けば琴子が咲かせたのだと、雨が降れば琴子が天国でバケツをひっくり返したのだと、鳥が舞えば琴子が追っているのだと、今でも琴子の姿を想って日々を過ごしています。

リンズが泣けば、琴子があやしてくれていると…