我慢すること
人が人に「それは諦めた方が良い」と、助言することがある。
おもちゃを欲しがる子供に
「あれは買わないよ、諦めなさい」
というのは定番。
でもじゃぁ、そう言っている人が、実際に見極めよく、諦めながら生きているのか。
正しくは、人は人に「それは我慢した方が良い」と言うべきだそうだ。
我儘を言う子供には我慢を教えることが大事なのであって、自分も出来ない諦めを、子供にだけ強いるのはおかしいそうだ。
この話は、琴子を天国に見送った後、何で知ったのか、いつの間にか私の心の中に残っている。
琴子が見えない生活にも慣れた。
琴子は見えない宝物であることが普通になり、泣く回数も減っている。
それを、もしかしたら人によっては
「琴子ちゃんのこと、諦めることが出来たのだ」
とおもっているのかもしれない。
琴子が死んだ後、ただ泣き暮れる私に
「諦めなさい」
と、何人からも、何回も言われた。
その度に、「諦めるってなんだろう…」と悩んだりもしていた。
泣く回数が減ったのは、諦めがついたからなんかじゃない。
琴子がいないことに、我慢することが出来るようになったのだ。
人と話していて、ヘラヘラ笑っていた私が、誰とも目が合わずにいるときに、ふっと泣きそうになってしまうことは今でもよくある。
泣くことを我慢している上に、常日頃、琴子のいないことを我慢しているのだ。
天使ママさんたちとの交流の中で、この“我慢”をつくづくと感じる。
皆、いつでも我慢をしている。
誰も「子供の死を諦めました」なんて言ってきたことはない。
あえて言葉にはしないけど、皆、我慢している。
そしてその我慢が何処に通じているのかと言えば、皆、いつか天国で先に逝った我が子に会える時なのだ。