当時の日記

裁判の資料をまとめるために、裁判を始めた頃に用意した箱の中の整理を始めた。

訴状や準備書面は記憶に新しい。

うちの場合は医療裁判とはいえ、1年もかからずに終ったから、資料や調書の量はとても少ないのだろう。

何年もかけている方も大勢いると聞く。

うちでも、最初に弁護士さんからは『2年はみておいて』と言われていた。

和解を拒んだとしても、そのまますぐに判決が下されていたのだろうから、いずれにしても、上告をしなければ、1年ほどで終ることになっていただろう。

短い裁判だったのだろうけど、弁護士さんとの書面でのやりとりも残っているし、私達夫婦にとっては琴子の大事な形見。


箱の中には日記が2冊入っていた。

1冊は『裁判日記』。

でも去年の8月31日の提訴の日までのもの。

ここからは、やりとりした書類などが日記のようになっている。

この日記は旦那の気持ちが細かく記入されていて、読み返していると、裁判前の気持ちも甦ってくる上に、当時の旦那の声にならないでも在った感情が重なる。


もう1冊は2003年の9月の初めの頃から10月の終わりまでに書かれていた日記。

ほぼ毎日書いていたので、1ヶ月ほどの日々でも1冊のノートが埋まっていた。

この日記を、数日前に新聞記者さんに伝えるべき内容の確認のために手にしていたのだけど、読み返す勇気が湧かず、一旦は閉じていた。

でも今日は読み返すことが出来た。

先日と今日の気持ちの違いはわからないけど、今日は出来た。


どの日にも『琴子に会いたい』とある。

それは今でもあるから、不変の想いなのだけど、あの頃の私にはお腹の中の琴子、胎動が生々しく残っていたので、

『もう一度、お腹を蹴って欲しい』

と何度も書いている。

当時、私は訪ねてきてくれる友人達に、

「私の生活は不自由になるかもしれないけど、一生、お腹の中が大きいままでもよかったのに」

と言っていたことも思い出した。


あの頃の私には何もなく、毎日、一日中、インターネットで天使ママ同士で交流したり、『本当に必要な母子手帳』というサイトを作って考えたり、悲しいお産に関する書籍を読み漁ったりしていた。

もう一つしていたのが、折り紙の裏に琴子宛ての手紙を書き、それで鶴を折っていた。

一日に何通も書いたりしていたので、もの凄い量の鶴になったことも思い出す。


裁判が終っても、未だに終らない私もいる。

当時の日記の中でも、琴子が寂しくないかを心配している私がいる。

琴子、私はここに居るよ。

お母さんはここに居るよ。