模様替え−蓮の花
ブログ開設以来、なんとなく使っていたブログのデザインに飽きたわけではないのだけど、他に良いのはないかなぁと、何気なく見てみたら、大好きな『蓮の花』があった。
仏教との繋がりも深いことからか、日本人としてのDNAに組み込まれているのか、深い意味はないのだけど、なんとなくずっと好きな花だった。
琴子が死んでしまってからは、余計に好きになり、自分で栽培することなどはないのだけど、絵でも写真でもなんでも、蓮の花を見るのは気分が高揚する。
蓮の花が咲くと、そこには琴子や天使ちゃんたちが座ったり舞ったりしているような気がして、心が温かく、そしてちょっとだけ寂しくもなる。
でも、泣くような寂しさじゃない。
いるはずだけど、見えないっていう寂しさだから、この寂しさには随分と慣れてきていて、泣くことはない。
生きている以上、会いたいけど会えないっていうことだけはしっかりと理解出来たから、会えないことには我慢が出来るようになった。
蓮の花を見ていると、こういう自分の中の気持ちの整理がつくような気がする。
心霊写真は怖いけど、琴子のような可愛い姿が写るのなら怖くないかな?
やっぱり他者にとっては怖いか。
琴子が寒くないように、お腹が空かないように、楽しくあるように…
死産から新生児死へと…新しい位牌
先週の土曜、琴子の新しい位牌が出来たことと、節目とは違うけど、戸籍に載ったということで、両家の祖父母も招き、他県に眠る琴子の地へと行き、法要を行ってきた。
死産でも新生児死でも、何か特別に違いがあるとはおもわないのだけど、私はおもわないのだけど、琴子が戸籍に載ってから、
「死産との扱いの違い」
は感じている。
それを自分たちが強調してしまうかのようで、なんだかちょっと後ろめたい気持ちもあったのだけど、子供が天国にいると、地上の親は想う以外にしてあげられることがあまりなく(あるんだけど、他者との接点がないというかなんというか…)、ついつい用事をおもいついてしまう。
で、『位牌を直そう』に至ったわけだな、と、自己分析。
新しく彫られた位牌を見て、びっくりした。
表面は戒名が同じだから、特別大きな変化はない。
驚いたのは裏面。
前までは『死産』とだけしかなかったようなものだったのに、
『○○(旦那の名前)の長女』
とあるのだ!!!
えーッ!?
なんだかやっぱり、宗教の中の差別があるわけ?
ただの因縁は言わないようにしたく、極力そうあるように努力をしているのだけど、だからこそ、和尚さんには言えなかったけど、でもなんだか悲しかった。
前の位牌にも、せめて
『○○(旦那の名前)の娘』
くらい、彫っておいてくれればまだ良かったのかもしれないけど、なんだか死産の頃の琴子は、宗教界においても、私たちの娘とは認められていなかったような気がして、本当の仏様はそんなことはないのだろうけど、やっぱり現世に生きている宗教者たちには、こういう意識はないのだろうなぁと、別に私は悟っているわけではないのだけど、妙に悲しくなった。
法要を迎える数日前に、友人天使ママさんに電話で話しをしていた。
ちょっと別の用事があって電話をしたのだけど、やっぱり話は天使ちゃんのことになる。
それと、周囲の人との付き合いの上での悩み。
その会話の中で、
「死産だと、扱いが軽くなる」
ということがあった。
電話で話していた友人天使ママさんには先に一人、地上のお子さんがいて、このお子さんのお付き合い上でのママ同士の会話の中で、友人天使ママさんが天使ちゃんのお話、お産の話をしようとおもったら、
「気にしなくていい」
というようなことを言われたそうだ。
気にしなくていいって、じゃぁあなた、自分のそのお子さんが死んでしまっても、あなたは気にしないの? と言いたい。
私だったら言ってしまっていたかもしれない。
もし言っていたとしたら、そこでもしかしたら、最悪の場合、相手の口から
「そりゃ違うよ、あなたの場合は死産でしょ?」
と言われてしまうかもしれない。
いずれにしても、私たちにはそう言っているようにしか聞こえない。
この会話の中で、友人天使ママさんの言葉が今でも私の心に響く−『じゃぁあなたは赤ちゃんの遺体を見たことはあるの? って聞きたい』
そう、本当にそうなんだよね、死産を軽く扱う人に言いたい、あの遺体を見たら、どうおもうのかと聞きたい。
生きた人の死と死産と、一体何が違うというのか。
記憶? 記録?
じゃぁ、私たちのお腹の中で生きていた日々は、生きて生まれない限りはなんの意味も持たないのか?
記憶に残してもいけず、記録にすら残されないことなの?
戸籍には残せなくても、位牌には残してくれてもいいじゃない。
和尚さんは法要の後、ご自身の親も、幼い頃に二人のお子さんを亡くしていて、要するに自分にも亡くなった兄が二人いるのだと話してくれた。
「人は必ず、意味をもって生まれてくる」
と話された。
それはありがたいことなのだけど、私は意味がなくてもいいから、琴子には生きていて欲しかったとおもうこともある。
意味のない命はないというから、生きていても死んでしまっても、琴子の命には意味があったわけだけど…でも、これは死産だって同じことなわけで、お話と位牌が矛盾しているぞ!!!! と、ちょっとおもっていたまま、新しい位牌を胸に、無事に家に着いた。
もしかしたら私の不満は、
「戸籍に載ったので、お位牌に直すべきことがあれば…」
と相談した段階で、
「いえいえ、死産も新生児死も同じですから、そのままそのお位牌を大事にしてください」
と言われなかったことから始まっていたのかもしれない。
私の中にある矛盾も認めつつ…
長女と次女、死産と新生児死
ある場面で、私の妊娠・出産歴を記入する機会があった。
初めての妊娠では初期流産。
次の妊娠では39週で出産したが、逆子で『死産』― と書いてしまった。
琴子が死産の扱いを受けていた日々、「死産だって新生児死だって、皆同じ命じゃないか!」とそう自分に言い聞かせて、そして実際に人にも言っていたので、すっかり私自身の中で、死産という言葉が違和感ないものになっていた。
でもそれを見て、相手の方は、
「お子さんは一人」
と言った。
その一人とは、琴子の後に生まれたリンズのこと。
「いえ、二人です」
と空かさず訂正したら、
「だって、死産…」
と言われたので、
「書き間違えました、裁判をして、生きて生まれたことが認められたのです」
と言ったら、納得してくれました。
「生きていることが認められた!」
と喜ぶ自分と、
「死産だって、母親のお腹の中では生きていたし、同じ人間の死だ!」
と想い続ける自分がいて、死産でも戸籍に載せるか否かの判断は親にさせてくれればいいのにとか、裁判が終っても、まだまだ自分の中でグルグルしていることや、現実が変わったということ、それがあまりにも円滑に運ばれたことにより、拍子抜けしたままなのかな、言葉に慣れていないこともあって、こんな書き間違えをしちゃっています。
8月31日、琴子のお誕生日と命日
去る8月31日、琴子のお誕生日と命日のこの日、3時間半の道のりを行き、琴子の眠る墓地へと行ってきました。
位牌を持って行き、住職さんに話したのだけど、ちょっと耳が遠くなってしまっているのかな、なかなか話が通じず、11時20分に着いていて、11時30分の琴子の生まれた時間に墓前で一緒にいようと計画していたのに、それがちょっと過ぎてしまったのが残念…11時20分に着いた段階では、「凄い! 滅茶苦茶に丁度良い時間に着いた!」とおもって嬉しかったのにな。
位牌は預けてきました。
『死産女』と彫られているところを、『当歳』とするのかな、そんなことを筆談していました。
滅多にあることではないので、住職さんも戸惑いがあるようでした。
琴子のお誕生日は気持ちが複雑です。
「お誕生日」が「命日」なので、親としては楽しくおもえる「お誕生日」を優先して考えたいのだけど、「命日」という言葉の持つ重みからして、そこから脱することも出来なし、する必要も無いとわかっている分、お誕生日を喜ぶ私と、命日を悲しむ私が同居していて、心の整理がなかなかつかないです。
あと、やっぱり前後は涙もろくなる。
号泣するとかはないんだけど、いつも琴子を思い出す場面で、いつもは微笑んでいられることが、やけに涙が滲んできたり…やっぱり特別な日だな。
琴子は幸せモノです。
8月31日には大勢の方から、3歳のお誕生日のお祝いのメッセージを頂きました。
私の誕生日なんて、家族以外の方からお祝いを言ってもらうなんて皆無に等しいのに、琴子は幸せモノだなぁ。
この場をお借りして、お祝いの言葉をくださった皆様にお礼申し上げます。
琴子は3歳になりました!!!
位牌 其の弐
よくよく旦那に聞いてみると、位牌は直されるそうだ。
戒名はどうやらそのままになるそうで、裏面に彫られた“死産”が“死亡”となるため、今の位牌の其の部分を埋めるかどうにかして彫り直すのではないかということ。
まぁ、旦那の推測入りの話なので、実際にはどうなるのかわからないし、8月31日に行こうと話しているのだが、最近、若い住職さん(前までの住職さんの婿殿)に世代交代されたとかで、お勤めしながらの住職稼業となり、土日しかいないとかで、8月31日は会えないだろうということ。
まぁそれはそれで良しということで、琴子のお誕生日のお墓場に行けることになった。
位牌の件も滑らかに事が運ばれそうだし、とりあえず安心。