どういうこと?!
琴子を産んだ助産所はH。
助産師も同じくH。
2003年の8月31日に生まれ、そのままろくな処置も受けさせてもらえずに亡くなってしまった娘…こんなこと、こんな場面を誰が予想して出産するかな。
健診時に異常がない妊婦、普通は生まれたあとの準備なんて、ただひたすらに幸せなことばかりを予定しているから、誰がお葬式のこととかを予定しているかな。
途方に暮れるしかない私は、当時、娘の葬儀を終えてから、なーんにもすることがなくて、しなくちゃいけないことがあっても出来なくて、でもそんな私にも少しずつ疑問が湧いてきた。
「助産院で子供が死んだことを、どうして誰もおかしいっておもわないんだろう」
私の実父が葬儀の前に
「お前達は騙されたんだ!」
って言ってくれていたけど、そのときは何もかもが辛くって、どうやってこの現実を受け入れたら良いのかさえもわからず、言葉は耳から脳へと入ってきていたのだけど、それは意味を持たないただの言葉の存在としかならなかった。
それが徐々に解かれ始め、
「どうしてこういうことを相談できる場所がないんだろう」
って、やっとそう思えた。
ネットで検索したら、日本助産師会をみつけることができた。
そしてその中に『安全対策室』というのがあって、そこでは“自宅分娩などの相談”とかとあって、なんとなく自分は場違いなようだけど、でもそこしかないようだからとりあえず電話をしてみた。
電話で私の経緯、結果を知るなり、驚いていた。
どうしてそのような危険なお産が…てことなんだろうね。
でもね、そんな驚いちゃっているけど、そういうことを知ろうとしなかったんでしょう、放って置いたんでしょ?
2005年9月7日の今日の私は、この放置している姿勢に本当に腹が立っている。
2003年の10月に都内にある安全対策室にはじめて出向き、そこから今日まで電話でなり手紙でなり話をしてきた。
それは二度とこういうことが繰り返されないように徹底して欲しいから。
私はなにも「琴子を生き返らせてくれ!」なんて、無理なことをお願いしていません。
そりゃ、叶えられるなら是非お願いしたいくらいだよ。
Hは私に
「助産師を辞める」
と手紙で言ってきた。
だから許してくれということだろう。
でもね、実は今日、助産師会から来た手紙にこうある。
5月にH宅を訪問した際のやり取りとして、
「止めようと思っていたが、どうしても頼まれる場合などがあった。
8月の予定日の方が残っている」
って、全然やめてないじゃんかよッ!
やめる気全くないんじゃんかよッ!
人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!!!
娘のこと死なせたのはあんたなんだぞ!
それとね、私は今まで、さんざん言ってきたんだよ、
「何をもってHが助産業をやめたと言えるのか、県の支部で監督できないのか」
とね。
助産院てね、密室なんだよね。
これからまたどんどん書くけど、私、カルテすら作成されていなかったんだよ。
でね、それがばれてもお咎めなしなんだよ。
5月に行っていてこの事実をとっくに知っていて、でも報告してくれないなんて、共犯だよね。
8月にお願いされていると知っていて…私は9月7日の今日、知ったんだよ。
きっと共犯だよね。
なんにもうかばれない。
私の娘の死って、そんなに簡単なことなのかな。
医者だと『患者の死に慣れて麻痺している』ってすぐに皆言うけどね、私の体験からは『助産師だって同じだよ』。