このままどこかで死のう

『このまま、どこかで死のうよ』と、琴子を亡くして、その亡骸を私の腕に抱き、旦那の運転する車の助手席で、私はそれが当たり前のことだという気持ちのまま、旦那に言ったことを思い出す。

旦那は

「駄目だよ」

とだけ言うから、

「どうして?」

と聞いたら、

「だって、お葬式を出してあげなきゃ」

と言った。

そっか、お葬式を出してあげなきゃか…私は大きなコンクリートの壁が目の前に立ちはだかったら、迷わずにアクセルを想いっきり踏んでほしいなぁと、そればかりを考えていたのだけど、お葬式を出してあげることが、私達親にとって、もう唯一残された育児なんだっておもえて、じゃぁ帰らなくちゃいけないなと、やっと死を考えることをやめることが出来た。

あのとき、もしも旦那が言葉を失っていたら、十分に有り得た私達の死。

琴子は自分のお葬式という儀式を持って、私達を生かしてくれた。

だのに、旦那は泣きながら運転しているから、場合によっては危険な行為。

もしあのとき何かがあって、警察をよぶことになっていたら、死体搬送をしている私達はどうなっていたのだろうか。

そして、もしかしたらそうなったとき、きっと琴子を奪われて、私は事情聴取をされている間中、琴子に会いたいって泣いていたんだろうな。

腕の中でどんどん冷たくなっていくのを薄っすらと感じながら、ずっと可愛くて可愛くて、誰が見ても可愛いんだろうなって、あの日の晩にすぐに駆けつけてくださった方に「抱いてやってください」ってお願いしちゃったんだよね。

でもその方は抱いてくれた。

「小さくて可愛いね、まるでお地蔵ちゃんだね」

って言ってくれたのがとっても嬉しかった。


どんどんと家族や友人達が来てくれて、その度に泣いている私なんだけど、心の中の一部では、

「琴子の顔色が変わってきちゃった…」

って、冷静な認識のようなものがあって、でもそれは今思えば、琴子がお骨になってしまうまでの唯一の琴子の成長・変化を見守る気持ちだったのかもしれない。

甥っ子が

「琴子ちゃんは冷たいんだね」

と言いながら頭をなでてくれて、1時間おきくらいに琴子の変化を言葉にして伝える…残酷なようだけど、私は琴子を拒絶しなかった甥っ子の言葉や気持ちが嬉しくて、大好きだった。


葬儀屋が来てくれたのだけど、死産という扱いになっていたので、仕切りたがる義父に死産だと簡易な内容で構わないと言ったらしく(親としては許せないけど、あのときには事務的なことなんて出来なかったし、嫌におもっていたけど、言い返す気力もなかった)、義父はことあるごとに

「こういうことは闇から闇へ」

と繰り返していた。

“闇に葬る”というのはこういうことを指していたのだと実感した。


簡易な葬式といっても、義父がそうしたがったとしても、来てくれる友人の気持ちや花束が賑わせてくれて、琴子はまるでお花畑で眠っているようだった。

可愛くて可愛くて、何処の国のお姫様だろうねって、甥っ子に話していた。


琴子が生まれた2003年の8月31日は、今日の栃木県の空みたいな、薄暗い曇りの日だった。

今、日記を書いている時間くらいに、産婆に

「あきらめてくれ」

と言われた。

諦められるわけがないのに、どうしてそんなことを言うのだろうと、私は泣くことしか出来なかった。


前までは曇りの日の方が好きだった。

木々の緑の色は曇りの空の方が栄えるとおもっているので、外にいるのなら曇りの日の方が好きで、晴れているのってなんとなく鬱陶しかったりした。

でもあの日を境に、曇りの日は寂しくて悲しい気持ちに走り易い日になってしまった。

晴れている方が動き易くなった。

琴子が亡くなった後、しばらく私の家で面倒を見てくれた実母が

「夕焼けは野生の動物でも寂しく感じるらしいよ」

と言ったので、私は夕焼けが好きになった。

だって、夕焼け空のときなら皆、寂しい気持ちを理解してくれるような気がしたから。


どうして動物は寂しく感じるのだろう。

子供を亡くしたことがあるのかなぁ…