裁判が終ります

前回の口頭弁論にて、H助産師が嘘をつき通す姿勢を見せていると、被告側代理人がそう言ったことにより、裁判官がH助産師を呼び、話をするということになっていたのだが、私が実家に帰省している間に進展があり、被告側から

『原告側の言うことを認める』

という連絡があり、それにより、和解が成立することになった…と、旦那から電話があった。

拍子抜けするというかなんというか、なんのためについた嘘なのか、嘘をつく神経もわからないけど、こうも簡単に曲げられてしまうこともわからん。

ようするに、本当にいい加減な助産師だったのだな。

嘘をつき通され続けるのも不快なんだけどね。


和解を求めていたわけではないので、どこかでしっくりとこないような気もしているんだけど、医師X氏にすぐに電話をして報告をしたら、この結果を支持してくださったので、気持ちが晴れた。

琴子を戸籍にのせられるかどうか、難しいことがすぐに目の前に立ちはだかるとおもっているけど、裁判を進めて行く中で、唯一と言えるくらいの“継続していける事柄”なので、琴子を想う時間を得られたのだと感謝して、出来るだけのことはしていきたい。


裁判が終るって、どういうことなんだろう。

裁判を起こして、どう変わったのだろう。

相変わらず、お産を軽く扱い、美化して安易に危機感を失わせることばかりが目立っていて、あと何人死んだら分かってくれるのだろうかと、不安になることが多い。

産科医がいなくなるってやけに言う。

その理由を、『最近の訴訟の多さ』に集中させている人が多いけど、訴訟が起こらないようにする努力ってされているのだろうか。

私だって、琴子が死んですぐに裁判を決めたわけではない。

司法の外で、十分に考えて欲しくて、改善をして欲しくて働きかけていたけど、H助産師は嘘をついてお産を受け続けていたし、助産師会だって、監督してくれていなかった。

遺族の気分を害させておいて、“訴訟の多さにうんざり”はないよ。

もし、H助産師が私を追い返したり、嘘をついたり、ついてしまった嘘を素直に認めて反省してくれたり、辞めると言った助産行為を徹底して守ってくれたり、自分の行為を表沙汰にしてまで助産院での危険なお産がなくなるように働いてくれたりしたら、裁判なんてしなかったよ。


裁判は終るから、きっと何かは変わるんだとおもう。

でも、琴子が死んでしまったということだけは、いつまでも私達夫婦にとって、色褪せることすらない事実。

ずっとこの想いを抱えて生きていく。