耕平君のお話
今日は私以外の方の、助産院での出産のお話をします。
先に申し上げますが、お子さんは亡くなっています。
亡くなったお子さんの名前は耕平君です。
註:太文字は耕平君の母親・さくらさんからのメールより抜粋
平成11年4月に埼玉県のS助産院で分娩されたさくらさんのお話です。
初産で、
1.陣痛促進剤を使いたくなかった。(母子共に)
2.会陰切開に抵抗があった。
3.授乳に不安があった。(初乳を十分に与えられるか?など…)
という希望、理由から、助産院での出産を希望し、S助産院での出産を決められました。
さくらさんが妊娠していた当時、さくらさん自身は『助産院で産むというのは生き方だ』と思ってたそうです。
更に、水中出産というのに興味があったそうです。
『雑誌の名前は忘れましたが、たまひよ?コッコクラブ?などの雑誌に
特集があっても、そんな危険性については書いてなかったと思います。
かなり隅々まで読んでいたので…』
また、赤ちゃんって自然に生まれて来ると思っていました。
危険な事だという認識が足りなかったのです。
昔も今も、自宅で…とかトイレで…生まれてしまった。
という報道を聞きますよね?
それぐらい簡単に生まれて来ると思っていたのです。
この感覚は私にもありましたので、凄くよく分かります。
そうなんです、簡単に生まれてくるっておもってしまっていました。
院長とアシスタントの2名。
さくらさんは当初、その2名だけだとおもっていたそうですが、陣痛から入院となった際に、院長の母親も助産師で勤めていると知ったそうです。
妊娠中に健診で何度か通っていてもその母親助産師に会うことはなかったそうで、いざ出産となった場面で、助産院でも初対面というのはあるんですね。
さくらさんはそのときは、その母親助産師が助産行為をするということに対して、特別何もおもわれなかったそうです。
どの助産師でも、危険な状態になればきちんと判断すると信頼していたからこそ、初対面の母親助産師が現れても(健診でずっと会っていた院長はその場にはいなかったそうです)、子供は無事に生まれると信じていたからだそうです。
でも、それさえも判断してもらえなかったんですね、私。
私は1週間ほど予定日を過ぎてから助産院へ入院しました。
入院前の2日間ほど、陣痛の様な痛さが続き、アシスタントの助産師さんから
『まだ産まれそうにないけど、そんなに痛いの?』と言われながら入院しました。
入院した晩も横になっていられないぐらいの痛さが続きましたが、
母親先生は『まだまだ時間がかかるね』と言いました。
そして朝方になって心音が聞こえなくなったという経緯です。
初産でしたし、陣痛とはこういうモノなのだ。
また、妊娠中に太ってしまった事もあり、陣痛微弱は私のせいなのだ、
これを耐えなければお母さんになれないのだと思い、そのまま我慢してしまいました。
つい最近になって母に
『あの時は様子がおかしいので、何度も病院へ連れて行こうと思ったのだけど…』とその時の気持ちを聞きました。
自然分娩を望んでいる私の気持ちを考えると『病院へ行こう』とは言い出せなかったようです。
私も苦しみましたが、母も父も苦しんでいたようでした。
立ち直れない日々の中で、自分を責めれば責めるほど、
母もまた『なぜ病院へ連れて行かなかったのだろう?』と自分を責めていたようです。
『出産の時には院長先生が来るから』とアシスタントの先生に言われました。
母親先生がした事といえば、調味料を入替えるときに使う、ロートのような聴診器で定期的に心音を聞くだけ。
実際に心音が聞こえなくなった時に、救急車で搬送されるモノと思っていました。
ですが、他人事のように『病院へ行って下さい』と言われただけでした。
陣痛が長引き、胎児の心音が下がっていく中、母親助産師には危機感がなかったようで、遂には心音が止まってしまったというのに、娘である院長に電話で相談している…
心音が止まった時点で院長と電話で話しをしていたのですが、心音が聞こえないという事実を認識していながら、『病院へ行かないと大変な事になるよ』と院長はのん気な発言。
母親先生も特別焦った様子はありませんでした。
というか…その時点で『私は知らない』みたいなオーラがありました。
また、院長にどんな事情があったかは知りませんが、結局その日は来る気がなかったとしか思えませんでした。
そこからやっと、さくらさんは総合病院へ搬送されたそうです。
それも、助産院にてそのまま耕平君の心音が止まってしまってから2時間も後のことです。
総合病院では、死産の原因は不明との事でした。
ただ直接の原因なのかわからないのですが、へその緒が首に巻いていたと言っていました。
きっと苦しかったのだと思います。
だから私も3日間苦しかったのだと思います。
だって、心音が止まってしまってから、あれほどの痛みが止まったのですから…
私は陣痛だと思い込み、こんな事で弱音を吐いてはいけないのだと決め付けていました。
『これは本当に通常の痛みなのか?』
『本当にこのまま助産院で出産できるのか?』と
なぜあの時に思えなかったのだろうと、本当に後悔しています。
やはり私が悪いのです。
ですが、二度と同じ失敗はしません。
出産の翌日、アシスタントの先生がお見舞いに来てくれましたが、会う気になれず、その次の日に娘先生が来られたようですが、会いませんでした。
『入院の費用はいりません』と言いに来たようでした。
S助産院からはそれっきり何もありません。
さくらさんから伺い、ネットでこの助産院を検索したところ、まだ開業していました。
どのような助産院かを紹介している内容があり、その中で『メンタルケアのサポートをしている』とあります。
私には分からないです。
私も、H助産師から都合が悪くなったら突然、突き放されました。
四十九日の間ずっと同じ部屋で寝て、実家のすぐ裏のお墓に納骨後は夜中に『耕ちゃん、幽霊でもいいから私の前に現れて』と泣きながら眠ってしまった事もあります。
でも、七回忌を過ぎてやっと私の気持ちを整理する事が出来ました。
いつまでも、耕ちゃん・耕ちゃんと私が未練を残しては心配で生まれ変われないだろうと思えるようになりました。
耕平君と琴子は今頃、天国でただひたすらに楽しい日々を過ごしているのだと思います。
子の楽しい日々は親として嬉しい限りですが、天国での楽しい日々を望んで妊娠したわけであはりません。
私達の住むこの世はただひたすらに楽しい天国とは違うけれども、一緒に笑ったり泣いたり怒ったりしながらでも、一緒に生きたいとおもっていましたし、それが当たり前のようにおもって分娩に向かいました。
子供の生まれ変わりを心配するなんて、妊娠している間に誰がおもうでしょうか。
まさかそんなことになるなんて、そんな結果を得ないために助産師がしてくれることがあると、さくらさんも私も信じていました。
耕平君の死は平成11年のことです。
さくらさんは7年間、ずっと気持ちを秘めていらしたそうです。
S助産院はその後、何も言ってこなかったそうですが、S助産院はこの事実を助産師会もしくは保健所なりに報告しているのでしょうか。
助産院は安全に向かっているのでしょうか。