産屋と医療―香川県伊吹島における助産婦のライフヒストリー

夏の終わり頃に、出産の歴史について研究されているという伏見裕子さんから、近く発表されるという研究論文が『女性学年報 第31号』(日本女性学研究会発行)に掲載される予定で、その中で琴子の話を書きたいという嬉しいお知らせを頂戴しました。丁度、無介助分娩のあの頃です。論文を読ませていただき、琴子の誕生日プレゼントだと感じ、是非にと返事をさせて頂きました。
以下は伏見さんの研究論文発表に向けた要約です。

産屋と医療

香川県伊吹島における助産婦のライフヒストリー

伏見裕子

産屋(うぶや)とは、出産に伴うケガレを理由に、女性が出産時ないし産後の一定期間を家族と離れて過ごした場所の総称である。全国的に見れば、産屋は明治期までに閉鎖されたものが大半であるが、本稿で取り上げる香川県伊吹島の産屋、すなわちデービヤは、1970年まで使用された。

これまで、産屋での出産は医療と対立的に描かれ、出産の行き過ぎた医療化を批判する論拠としてしばしば産屋での「自然」なお産が用いられてきた。本稿は、伊吹島で1946年から1967年まで出産介助を行っていたNさんのライフヒストリーを通じて、デービヤと医療との関係を明らかにすることを目的とするものである。

Nさんは、1925年に大分県豊前長洲で生まれ、小学生の時に家族で伊吹島に移住した。1944年に京都の産婆学校を卒業して資格を得、香川県内の病院での勤務経験を経て1946年に伊吹島へ帰った。当時の伊吹島では、自宅で出産した翌日にデービヤへ行き、新生児と共に約1ヶ月間過ごすのが一般的であった。しかしNさんは、出産直後に移動するのは良くないとして、デービヤでの出産を勧め、近代医療に基づく助産を行った。さらに、Nさんに続いて開業したIさんと共に役場へ出向き、分娩室の設置を求めるなど積極的に働きかけたのである。こうしたNさんの取り組みは、デービヤが戦後も長期間存続した要因として非常に重要であると思う。

 また、Nさんは妊婦たちに月1回の健診を受けるよう促し、デービヤで母親学級や受胎調節指導を行って、女性たちの知識向上に努めた。その結果、島民の衛生知識が向上し、産前産後の嫁の身体が気遣われるようになると、それまで嫁にとって唯一の静養場所であったデービヤへ行かなくとも、自宅で静養することが可能となった。また、異常な兆候のある人を中心に、島外の病院で出産する人も出てきた。こうして、妊産婦たちにとってデービヤは、唯一の静養場所ではなく、選択肢の一つになり、やがて閉鎖に至ったのである。

 以上のように、デービヤの存廃には医療が密接に関わっていたのであり、両者は決して対立的な関係ではなかった。一方で、産婦がデービヤに向かう際には神社や祠を迂回し、デービヤから自宅へ戻る際にはキヨメを行うなど、ケガレ意識を裏づける行動も見られた。戦後のデービヤでは、医療に基づく出産とケガレ意識に基づく行動が同居していたのである。

    • -

書名は『女性学年報』第31号、〈特集:女と医療―産婆・テクノロジー・女性運動―〉のなかの一つとして紹介されています。11月末発行で、「日本女性学研究会」のHPからどなたでも購入頂けるようになっています。
「日本女性学研究会」HP

「「昔のお産」を美化するのではなく、その歴史的変化や多様性に目を向けたい」という姿勢で研究している伏見さんのご活躍を、これからも琴子と共にお祈りしております。