教育の現場が何してんだか...

ツイッターで「資格もないのに意見するな」みたいなことをご指摘くださる方がいらっしゃいました。
まぁ、色々なご意見もあるのだなとおもっただけですが、資格のある方のご意見を私でも使わせていただく機会には琴子のお蔭で恵まれましたので、そのような方にも読んでいただけたらとおもいまして、今日もまたふぃっしゅさんのご意見に頼らせていただきます。
※強調しているのはすべて、私、琴子の母です

自宅分娩の問題、あえて「問題」と書きますが、これは助産師の分娩に対する認識の問題であるという一言に尽きると思います。
というのも、産科医の方で自宅分娩を往診で請け負っていらっしゃる方のお話はまず耳にしません。
つまり、自宅分娩=助産師の介助ということですね。

2010年12月6日のエントリー「赤ちゃんをリスクに曝す権利はない」の中に、「女性には産む場所や方法を選ぶ権利はあるが」とあります。
これは本当に文面通りだと思います。
ただし、「産む場所や方法」には、緊急時の医療介入がすぐにできる医療レベルの国であれば当然その設備や専門職(医師)が介入できることが最低条件であることも含めていると解釈するべきだと思います。

搬送するのでは間に合わない状態があることは、分娩介助をする助産師なら認識していなければいけません。たとえ今までそのような緊急時に当たった経験がなかったとしても、文献や統計からその危険性を認識していなければいけません。
また、ここの過去のエントリーでも紹介された海外の自宅分娩や助産師だけの分娩介助のリスクに関する研究も理解していなければいけません。

リスクを認識しているのであれば、なぜ助産師だけであるいは自宅分娩をあえて請け負うのか。
助産院や自宅分娩をしている助産師は、この自分の認識の中の矛盾にきちんと答えを出しているでしょうか?
日本の助産院・自宅分娩の現状を分析して、海外の研究に反論できるだけのものを持っているでしょうか?

ないと思います。
ならば、やめることが助産師の責任だと思います。
あるいは「女性の産む場所や方法の選択の権利」を大事にするのであれば、医療機器持参で自宅分娩に対応してくれる産科医を探すようにアドバイスすることが、現代の助産師の役目です。
もちろん、そのような産科医を見つけられるほど周産期医療の現場には贅沢な余裕はありません。

1960年代を境に、分娩の安全性を高めるためには医師とともに分娩を行うことが、日本(あるいは世界)の産科の基準になったことを助産師側の中でいつまでも認めない人たちがいることが問題の根底にあると思います。出生率・死亡率・乳児死亡率・新生児死亡率・周産期死亡率の推移」「妊産婦死亡率の推移」そして「出産場所の推移」この3つの統計が示す歴史的事実を受け止めようとしない助産師がいることが、問題を長引かせているのだと思います。
助産院も歴史的には長い歴史なんてないのです。
1950年代まではほとんどが自宅分娩でした。病院での施設分娩に以降する過渡期に、それまで開業助産婦さんたちが助産所を開設し始めた助産所分娩がピークだったのは1965年頃で、それでも分娩の十数パーセントを請け負ったにすぎません。
1980年代には過渡期の役割を終え、現在のような全体の1%程度になっていきます。
社会は分娩に安全性を求めた結果なのです。それまでよほど裕福でない限り、分娩介助者として医師を求めることがかなわなかった社会が大きく変化したのです。

2011年5月21日の「助産師学校みたいな世界」のtadano__ryさんのコメントは、本当に正しいと思います。
「順番がおかしいのだと思います。学校はまず知識と技術を教える場なのに、その前に哲学や思想を教え込もうとするからおかしなことになります。」
今も多くの助産師が「正常なお産は助産師だけで介助できる」という思想にがんじがらめになっている、まさにその通りだと思います。
「お産は終了してみないと正常かどうかわからない」というのが科学的な思考であり、それを理解できる助産師を育てることが「自宅分娩問題」を解決する方法だと思います。


ふぃっしゅさんがご紹介くださったtadano--ryさんのご意見です。

順番がおかしいのだと思います。学校はまず知識と技術を教える場なのに、その前に哲学や思想を教え込もうとするからおかしな事になります。
 医学部にも最近医療倫理などを教える所が増えてきましたが、大抵は1,2回生で教えてるので机上の空論に終わってしまい何も残らない。しかも内容が「クローン人間は是か非か」「脳死をどう考えるか」など、(考えていけないというわけではないが)およそ臨床現場とは関係のないものが多い。せめてポリクリを回った直後にやらせれば、現場を見て患者に触れた後なのでもっと臨場感のある有意義なものになるはずです。
 たとえば「苦痛を伴うような過酷な延命治療は避けるべき、その人の生命の尊厳を最大限に尊重せよ」と習ったところで、現場に出たら「私はまだ子供が小さいので、何としても長生きして子供の成長を見届けたい。どんなに苦しくても、体がボロボロになってもいいから、1分でも長生きさせてください」と懇願されたりするわけです。その時点で習った事なんて吹っ飛びます。しかしそこから考えることが始まるのです。
 価値観、倫理観や哲学思想というのものは、仕事も含む日々の生活の中から勝ち取るものであり、教え込むものではないでしょう。もし教えるのなら「こういう考え方もある」という知識だけで十分で、価値判断は個人にさせればいいのです。
 精神的に未熟で、知識も技術もない学生に「君たちは神に選ばれた人々だ」なんて危ない宗教じゃないですか。自分が心酔している考えだから一人でも多くの人に知ってほしいのは分かります。しかし学校は教育の場であり、教育には段階があるのです。学生は自分を慕って集まってくる妊婦さんたちではないのです。だからそこを我慢するのが教育なのです。命より大事なものはないんだから、まず命を失わせないための知識と技術を身につけさせるべきでしょう。人間性は優れているが点滴一つできない医者と、オタクで電波でもちゃんと処置治療してくれる医者と、どちらに診てほしいですか?

まさに、教育の現場が何してんだか...なご報告頂きましたので。
イーとさんのお話しからです。

先日、市の新生児訪問があり何故か市の保健師ではなく助産院の助産師が助産師学校の生徒を連れて来ました。
そして、その学生から「病院での出産で満足でしたか?」と質問されました。
私は「もちろん。何よりも安全を選んだし、先生も助産師さんも看護師さんもたよりになりましたよ。」と答えましたが、さらに「たとえば助産院で自然で自分らしいお産をしたいとは思わなかったですか?」と聞かれました。
目の前に助産院の助産師がいる状況で非常に答えにくかったのですが「思いませんでした。」と答えました。
なんだかなぁと考えてしまいました。

なんか、学生をうまく洗脳しているっていうのがよくわかるお話ですよね。
勿論、そんなことをちっともしていない学校や講師の方もいらっしゃるとおもいます。しかし、問題のある方たちや組織の方が、結局時間もあってこういうことに着手出来ちゃうようなんで、浸透していけちゃうみたいですね。

先日、ある助産師の方とお話ししていたら、何度も「正常なお産しか扱えない」とは言っていたのですが、「だから正常なお産なら扱える」という気持ちもあって、以前に同じ方が「出産は終わらないとわからない」というようなことを仰ってはいたのですが、都合よい解釈しかしていないというのがわかる会話でした。意見もしましたが、「だから、正常なお産だけを扱えば問題はないの」と言い切っていて、会話続行が無理だとおもいました。

とりあえず、開業助産師の方が教員となる、手伝いをするのはやめた方がいいとおもうんですが。

追記:ご意見くださった皆様、ありがとうございます。