“出産の医療化および施設化との関連を中心に”伏見さんの論文のご案内

当ブログでも以前からご紹介させていただいていた伏見さんの論文、琴子が出会いをくれた伏見さんの新しい論文が出ています。

山形県小国町大宮地区の産屋にみる安産信仰と穢れ観の変化
――出産の医療化および施設化との関連を中心に――
伏見 裕子

 本稿は、山形県小国町大宮地区の産屋(小屋場と呼ばれる)を特徴づける*1安産信仰や出産の穢れ観が、出産の医療化や施設化との関連のなかでどのように変化したかを明らかにするものである。
 大宮地区には安産祈願で名高い神社があり、歴代の宮司が所有してきた小屋場は、大宮地区内でありながら隣の増岡地区の飛び地にあると言い伝えられている。大宮地区では、警察や保健所といった近代衛生行政による指導に抗しながら、1968(昭和43)年まで小屋場での出産が行われた。産婦は産後7日目まで小屋場で過ごし、産後21日目のヒアキ(産の忌が明ける)までは陽に当たってはならない、食事を一度別の器に盛り替えてから食べねばならないなど、穢れ観に基づく決まり事を守っていた。
 小屋場に関して確認できる最古の史料は、1686(貞享3)年成立、1781(安永10)年筆写と伝えられる「大宮大明神縁起書之写」である。そこでは、小屋場で出産すれば安産できるが、それに背いて「他の村」(「大宮村」以外)で出産すると「災害」が起こるとされており、穢してはならないとされた土地は「社辺」のみであった。
 その後、小屋場について紹介された1935(昭和10)年の『東京日日新聞』記事では、「社辺」のみならず大宮地区全体が「聖地」と見なされるようになり、地区内での出産が一切禁じられて災いも具体化された。一方、「縁起書」で禁じられていた大宮地区以外での出産は、この記事で「神罰」の対象から外されている。また、小屋場での出産で亡くなった産婦や子どもはないとされ、安産信仰が強化されたことを指摘できる。
 産婆や医師の介入については、「縁起書」も1935(昭和10)年の記事も否定しているが、実際には、大宮地区とその周辺で少なくとも大正期から免許を持った産婆が活躍していたと推定できる。1950年代後半には、小屋場で難産があると医師が小屋場まで駆けつけた。新生児が亡くなることがあっても、母親は、小屋場で産めば安産できるという安産信仰を自分に言い聞かせ、何かあれば医師が来てくれるという信頼をもって次子以降も小屋場で出産した。このように、安産信仰と医療への信頼が両輪となって小屋場での出産を支えていたのである。
 1960年代後半には、産婦が小屋場から病院へ搬送されるケースが2年連続で発生した。とりわけ1967(昭和42)年に難産で搬送された産婦が宮司の近い親類であったことから、これまで小屋場で難産はないと信じてきた男性住民にも「神の力が足りなかった」というショックを与えた。
 さらに、1969(昭和44)年と1970(昭和45)年には、過去に小屋場での出産を経験した人が病院で産むというケースが2件あった。2人とも数年前に起きた小屋場での難産を直接意識したわけではなかったようだが、1人は比較的高齢での出産であったこと、もう1人は前回出産時に出血が酷かったこと、さらに2人とも妊娠中に逆子になってしまったことから、病院での出産を決断した。その際、重要な根拠となったのは、子も親も生かしたいという生命観や、子どもは夫婦ふたりの子であるという子ども観、助産婦からのアドバイス、そして、小屋場では助からないが、病院で産んでも神社の加護があるだろうという安産信仰の変化だった。また、自家用車の普及と除雪車の導入も、冬場の病院への移動を可能にしたといえる。こうして大宮地区では、自宅出産の時代を経ることなく病院出産へと移行した。大宮地区で自宅出産が行われなかったのは、地区全体が神聖であり出産で穢してはならないという、比較的新しい穢れ観が忠実に守られたからである。
 そして1970年代に病院出産が当たり前になると、出産の穢れが直接意識されることはなくなり、ヒアキは次第に病院の1ヶ月健診と同一視されるようになった。ヒアキの認識については個人差が大きく、この概念そのものが消滅した時期を特定することは難しいが、病院出産が当たり前になってからもヒアキという概念はなかなか消え去らなかったといえる。


http://www.jca.apc.org/wssj/
今回はなんと、巻頭を飾られています!
伏見さん、おめでとうございます!

是非、より多くの方にご覧頂きたいと願っております。
今日はご案内のみとなってしまいますが、また感想も書かせてください。

*1:2012.12.5 要約文の冒頭部分に修正箇所有り(誤)本稿は、山形県地区の(と呼ばれる)を特徴づける→(正)本稿は、山形県小国町大宮地区の産屋(小屋場と呼ばれる)を特徴づける