私たち産む側の問題

私たちはいつからか、思い出作りを強要されているんだとおもいます。
胎盤を食べることにしても。
昔はしていたかなんてわかりもしないことをもっともらしく話して、「一つでも多くこなしておきたい!」って思っちゃっているんですよね。
そして、それが「助産師と一緒にいるからこそできる」という価値にされ、助産師を主とした分娩場所が支持されているようにも感じます。

子どもってなんなんでしょうかね。
私たち母子が特定の資格の個性を強調するために存在しているのかもしれないと考えると、今度は子どもが親の自慢話のために使われている存在なんだろうと気付かされる。みんなして、無理している。そして、常にその犠牲になっているのは、逆らうこともできない赤ちゃんという、よく見ると地獄草紙。



私たち産む側の問題もあるからこそ、子どもが死んでしまったという話を避けずに聞いて考えて欲しいのです。