伏見さんの論文、近日中に出ます!

伏見さんの論文が年内に発表される予定です。要旨をいただきましたので、ご案内いたします。
今後の最新情報も随時アップしていきたいと思います。

「島のお産から家族のお産へ―昭和20-30年代における伊吹島の出部屋と女性たち―」
伏見裕子

本稿は、昭和20-30年代の香川県伊吹島において女性たちが出部屋(デービヤ)とどのように関わり、また離れていったのかを、聞き取り調査を中心として明らかにするものである。
出部屋とは、伊吹島で利用された島共同の産屋であり、自宅での出産を終えた母児が出部屋で約1ヶ月間過ごすことが戦前期以来当たり前だった。そこには、漁師の船霊(ふなだま)信仰に基づく出産の穢れ観が反映されていた。出部屋が完全に利用されなくなるのは昭和45(1970)年のことであるが、昭和20-30年代にも出部屋を利用しない女性は少しずつ現れ始めていた。
伊吹島の女性にとって、出部屋へ行く最大の利点は、同居する姑から離れられることであった。また、出部屋にいる間は水や米、燃料の運搬の心配をする必要もなかった。これらの利点を感じられる女性にとって、出産に伴う穢れ観は重圧とはなりにくかった。
ところが、姑と同居していない女性や、水汲み等を普段担っていない女性の場合は、出部屋生活を穢れ観ゆえの隔離であると感じたり、出部屋での過ごし方の慣習に違和感をおぼえたりして、慣例より早く帰宅することも珍しくなかった。また、姑と同居の場合にも、嫁の労働力としての必要性から、出部屋で過ごす期間が短縮されることもあった。穢れ観ゆえに出部屋へ行ったと言っても、その内実にはさまざまな葛藤やせめぎ合いが存在したのである。
昭和30年代には、産婆の求めによって出部屋に分娩室が設置され、女性たちに産み場所の選択肢を提供した。漁船の動力化等で船霊信仰は弱まり、また病院での出産もみられるようになるが、産後は出部屋を利用することが当たり前であった。船霊信仰の弱まりや出産の医療化・病院化が即、女性の出部屋離れにつながったわけではない。
そのような中でも、出部屋へ行かない女性はいた。それは、上の子の世話を頼める人がいない経産婦である。彼女たちにとって、島で共有されているはずの穢れ観よりも、家族内における上の子の世話の方が重要であった。また昭和20年代中盤以降、近海の水産資源が減少し、漁業を離れて夫婦で県外へ出稼ぎに行くこともあった。そのような島の状況下で、女性が実家で出産し産後を実家で過ごすケースもみられ、出部屋離れがすすんだ。
以上のように、島では漁師の船霊信仰に基づく穢れ観ゆえ出部屋を利用することが当然とされてきた。しかしやがて、家族の事情が島で共有された穢れ観より優先され、出部屋以上の自由さと休養を女性にもたらす実家での養生が定着していく。伊吹島の出産は島のものから家族のものへと変化したのである。

今も出産後の上の子どもの面倒、預け先などでは似たような問題がありますよね。前回の穢れの内容も面白く、「今につながる問題」が段々と大きく見えてくるような、ジワジワと近づいてくるような感覚です。

伏見さん、楽しみにしてます!