囲まれるだけではなく、囲んでしまうかもしれないという問題

「ズンズン運動」については以前に「ずんずん運動から」(カタカナ表記だったんですね)などで触れていますが、
独自の施術で乳児死亡、NPO理事長有罪 大阪地裁 (2015年8月4日 朝日新聞
有罪判決の“ズンズン運動”元理事長を逮捕(2015年8月5日 TBSニュース)
とあった上で
「ズンズン運動」で乳児窒息死 NPO女性理事長の稼ぎっぷり(2015年3月7日 日刊ゲンダイ
記事の中

「約12年間で6000人以上の乳児を施術していたといいます。『免疫力を高め、アトピーに効果がある』などとうたって集客し、『大学教授から免疫学の裏付けを得ている』などとウソの説明で信用させていた。カルト集団の教祖のように口八丁手八丁、施術に訪れた客をスタッフで囲むなどして、抜け出せない雰囲気をつくっていたそうです」(捜査事情通)

ここです、本当にこんなカルト集団のようなことが、助産所や自宅出産を選ぶ方達にもあるとおもうんです。囲むまでのことはないにしても、似たような状況でしょう。「産み方は生き方だ」なんて言ったりするのだって、書籍や雑誌、最近ではネットを使って母親の意識を抜け出せないように追い込んで。
「ズンズン運動」は産んだあと(子どものために出会う)のことだけど、私たち母親(女性)がいかにして、妊娠前から複数のカルト化した思想に囲まれているかーそして、それらの殆どが子どもを餌食にしたような思想で、「こうしなければ子どものためにならない」=「母親失格」というような脅迫であるから、子どもが死んでしまうまで気付けなくなってしまう。
自分のエゴ、愚かさで子どもが死んでしまうことこそが母親失格という烙印であり、それを自ら押すことになるとは露ほども疑わない。
疑わずに突き進んでしまう私たちにも問題はあるとおもう。
でも、アトピーで悩んでいるお母さんの場合、痒くてたまらないのにかけずに泣いている子ども、そこにあるステロイドの問題などを身近に見ていると、毎日に疲れ、藁にも縋るおもいで情報を探し、子どもに良い結果になりそうだと歩み寄っていってしまうお母さん達に、一方的に母親失格と言い切ることは私にはできない。一番厄介で問題なのは、子どものため、母親のためと言葉を使いこなし、柔らかい表現を纏わせながら追い込んでくる人たち。
こういう問題をまとめたものを、母子手帳と一緒に配布するなどはできないものでしょうか。
これらの問題を知って考えるとき、自分が“囲む人・囲む側”になる可能性にも気が付いていただけたら幸い。
子どもを守るというのは自分の子どもだけではなく、他人の子どもに対しても同じでなくちゃならない。
助産院や自宅で産むことを熱く語る方にはご自分の発言を思い出してよく考えてみて欲しい。
押し付けがましい言い方や、見下した空気はないか?
被害者になる心配ばかりではなく、加害者になる可能性もみてほしい。
亡くなってしまった子ども達の命を無駄にしないためにも、こういう問題をまとめたものを、母子手帳と一緒に配布するなどはできないものでしょうか。

嘱託医無しと無許可だけが問題なわけではない

nomnomさん、ありがとうございます。
出産後の出血で死亡、助産師に罰金の略式命令魚拓
(関連の過去記事

 相模原市南区の「のぞみ助産院」で2013年、出産後に大量出血した女性が救急搬送の遅れから死亡した問題で、神奈川県警が業務上過失致死容疑で書類送検した女性助産師(69)について、横浜区検は29日、同罪で横浜簡裁に略式起訴した。

 簡裁は同日、罰金50万円の略式命令を出した。

 起訴状によると、助産師は13年4月27日夜、女性(当時33歳)が出産後に大量出血したのを確認したが、すぐに医療機関で治療を受けさせるなどの対応を怠り、翌28日に搬送先の病院で死亡させたとされる。

 助産院と助産師は、医療法で定められた市長の許可を受けず、緊急時の嘱託医療機関も確保しないで助産院を経営したとして、医療法違反容疑でも書類送検されたが、同容疑については不起訴となった。

嘱託医はいなくてはいけないはずだし、この「のぞみ助産院」は行政の許可を得ずに助産所を開業していたという、他の業界に置き換えても信じられないことが医療界で行われていたという有り得ないことに対して、更に有り得ない決断がくだされてしまったという、非常に残念な気持ちになりました。
更に正直に申せば、私は「嘱託医があるから安心・安全」ともおもっていませんので、どんな決断がくだされたとしても、問題解決のために助産師の方達がどういう思想で開業しているのか? というところと、助産師の方達のそのような思想を根付かせている可能性のある教育の見直しなど、この件で終えずに根本からの議論をしていただければと願っています。
これらの問題をこれから分娩場所を選ぶ方に知ってもらい、自然分娩がいかに残酷で死と隣り合わせのことなのかをきちんと想像してくれる機会にしてもらえたらとおもっています。
私の娘・琴子だって、提携している病院や嘱託医がいるという助産師に搬送をお願いしても拒否されて死んでしまいました。病院で出産していたら無事だったろうと、帝王切開で産んであげれば良かったのにと悔やんだって、死んだ子どもはかえってきません。臨月まで元気に私のお腹を蹴っていたのに、出産の場で死んでしまったんです。
生まれるはずの行為の中で死んだんです。
嘱託医との提携がきちんとあっても搬送をしてくれない問題は、きっと琴子以前からあったのに、私が琴子を産む前に知ることができなかっただけ。でも、もしも知ったとしても、まさか自分の子どもが死ぬとか、そういう不幸が我が身を襲うかもと、リアルに想像して考えることができなかったかもしれない。そのくらい、私たちは「女は産む力を持っている」とか、プラス思考といわれる妙な思想に洗脳されている可能性がある。

また、自宅出産だけを扱う無床の開業の場合だと嘱託医は要らないとか、過去、産科医しか嘱託医になれないとなったときにそれでは困ると反対運動をしたのが、一部であれ助産師の方達(助産師として有名な方も含まれていたりする)だったりしたのです。なぜ嘱託医が産科医に限定されたら困るのか? それは、提携してくれる産科医がみつけられそうもないから開業できなくなるじゃないかという、そういう理由がメインでしたね。そ開業さえできればあとはおかまいなしと解釈するしかないですよね。
あと、助産師には「妊娠・出産は病気じゃないのだから」という言葉を掲げる方も多く、それによって私たちは「病院が(じゃ)なくても大丈夫なのだ」という考えになってしまいがち。違います、今回のこの亡くなってしまった方だって出産後の急変だったように、助産所で亡くなっている方のほとんどが急変によるものだとおもえば(本来、開業助産師はリスクのある母体を請け負ってはいけない)、「健康的な私は大丈夫」が通用しないことだと気付けるはずなのです。
「産み方は生き方」だなんて言葉、これを自然分娩選択者だと一度は聞いて誇りにおもってしまったこともあるかとおもうのですが、じゃぁ、琴子が死んだ私の生き方はどうだったというのか? くだらない。非常にくだらない“自然分娩への誘いの常套句”だと私はおもっています。
今回の件、この程度で許されないはずだという気持ちを抱きながら、このようなことが放置されていたという問題(この助産所の問題は以前から周知のことだったらしい)や、体裁を取り繕っているだけで思想は同じか似たような人物が開業していないか? 嘱託医がいれば安全で安心なお産ができると言えるのか? そもそも、助産院や自宅出産は安全なのか? ということを見直す機会にしていって欲しいと願っています。

暑中に琴子から届いた気がする

暑中お見舞い 申し上げます。
暑いですね。
これしか言えない…

夕べ、久々に一人で家の中で過ごすことがあり、そうしたらネットを通じて琴子からまたメッセージが届いたような気がしました。
秋元寿恵夫氏著
医の倫理を問う 第731部隊での体験から
の中にあるという

人の命と常に対決させられているという特殊な立場にある医師、もしくは医学研究者が、彼らのみに許されているもろもろの特権になずみ過ぎ、その専門家気質がヒューマニズムの一線を踏み越えた場合には、このような事件はいつまたどこでも起こりうるのだ。

この一文が私に届いたんです。
(未読。書籍をまだ手にしていませんが、琴子が私に伝えたいとおもってくれたんだと感じたのでこれから読みます)


彼らのみに許されているもろもろの特権になずみ過ぎ、その専門家気質がヒューマニズムの一線を踏み越えた場合には、このような事件はいつまたどこでも起こりうるのだ。
この言葉は過ちを繰り返させないよう、何度も何度も私自身にも向けて言うべきことだとおもいました。
まったく同じような事件ではないから「繰り返している」とはおもわないだけで、実は手を替え品を替え、常に専門家気質のヒューマニズムが奪ってはいけないものを奪ってしまっているということは繰り返していることと同じではないでしょうか。
母親も専門家気質を抱きがちです。集団化して、自分の後に産む妊婦さんに先輩面して経験談を熱く語るところとか、専門家気質ですよね。妊婦に影響力大の助産師の方達も同様に、自らそうであると思ってくれたら良いのにと切に願います。
医師や医学研究者だけではなく、何かのためと勝手に掲げたヒューマニズムは一線を踏み越えやすい。秋元寿恵夫氏の生きた世界の中では次元のまったく違うこととはいえ、琴子が死んでしまったことに通じるものを感じます。

私が助産院を選んだのも、一線を踏み越えた末の影響があったことは否まないで欲しい。『許されているもろもろの特権になずみ過ぎ、その専門家気質がヒューマニズムの一線を踏み越え』ていないか? 目の前の妊婦や母親に病院外での出産、生活へと過剰に誘導していないか? と助産師の方に問いたいのと同時に、自分が産むからといって、子どもの安全性は自然の結果として受け入れるべきだと軽く扱っていないか? 
琴子には生きていて欲しかったけれども、今となってはそれは叶わないこと。でも、琴子はこうやって私にまだきちんと大事なことを教えてくれようとしていると感じています。琴子のことがあったからこそ、すごく心に響く。

胎盤食のことも含め、出産に対してのヒューマニズムには一線を踏み越えてしまっている状態があると、もっと問題視されるべきだとおもっています。

胎盤食で感じる「珍しいことが自然体でできる私」

胎盤を食べることがどんどんと浸透しちゃっていますね。助産所だけでなくお医者さんのいる産院でも食べさせてくれたよとか、まぁとにかく、きちんとした結論があるべき(あったはず/胎盤は医療廃棄物)なのに、「個人の自由」となってしまったようです。
「昔は食べていた」という、証拠もない話しを助産師の方達(時に、医師含む様子)がしているので、私たち専門知識のない立場の者が「許されている行為」をあえてしていないだけだと、珍しがっておもしろがってしまったのも原因としてありますよね。

子どもが無事に生まれるだけで終えてはいけないのでしょうか。
何かをしないといけないのでしょうか。

最近、ネットで胎盤を食べた報告がよくされている気がします。
つい先日は当ブログでも書いたように、某有名人が奥さんの出産を控え、胎盤を食べることを検討中みたいにありましたね。

そして、昨日目にしたのが
【閲覧注意】胎盤を食べた話に賛否 …どんな味なんだろ?
疑問を抱くことなくまとめられていることが残念です。
気にするのは味か…

食べた方達のお話を読んでいると、助産院で出産しているような自分的には珍しいことではないけど、こうやって話してみるとまだまだ世間的には珍しいってことになっちゃうみたいだから、総論、やっぱり私って凄い方だよね? 
ってことなんでしょうね。
ね、ね、凄いよね? 
って「珍しいことが自然体でできる私」を主張されるほど不自然さを感じますが、こういう方達もある意味利用されているわけで、胎盤を食べないといけないように仕向けた方がいるってことです。私は日本では胎盤を食べていない(東北の飢饉の問題で非常食としての保管はあったのかもしれないくらいしか有り得ない)と捉えていますが、ここまで食べさせる方向に導いた助産師の方達は何が目的だったのか? 「助産院で産むと、こういう経験もできるよ!」っていうことも理由として大きく存在しているとおもっています。

お産で子どもの無事を祈っているだけ、無事で喜ぶだけではもうダメなんでしょうかね。
へその緒を切るっていうのも、厳密にいうと医療行為に該当するというのも琴子の死によって知って、助産師界、言っていることとやっていることがメチャクチャなんだとショックでした。
助産師の方達は医師や病院で出産することに対して、過剰な医療介入を批判してきたけれども、ここまでして出産の場に儀式を作って介入させていることには異常性を感じないのでしょうか。
味だとか食べ方だとか、そんなことではなくこういうことを論じ合いたいけれども、「珍しいことが自然体でできる」タイプの方は否定されると
“科学で証明出来ないことを理解できる私”は“あなたとは違うんです”
として対話が難しくなります。
やんわりした空気を漂わせながら、攻撃的になっていきます。これはツイッターなどでこの手の方とやりとりしているとよくわかりますよね。
表情見えないだけで、急にいつものポエム調から攻撃的なものに変わったりしますから。

別の視点から。
胎盤の場合は、まずその胎盤を食べて良いのか? という、カニバリズムの倫理的問題があるので、本来は同じレベルで論じることはできないはずですが、
厚生労働省 豚レバーの生食は、やめましょう
でもう少し考えてくれる方が増えてくれることを祈ります。
ただ、何度も言いますが、胎盤は火を通せば良いのではなく、胎盤は食べてはならないものだと、食べるということはカニバリズムになると考え直して欲しいです。

某有名人同士のご夫婦。

奥さんが妊娠中で出産も近いんだかなんだか。
元々、妊娠することからして話題にしていたので、妊娠から出産まで・・・多分、産後もずっとこういうことを話題にして、新しい何かを提案しているつもりでいらっしゃるのでしょう。
最近は胎盤を食べることを希望とされ、バースプランに入れたとかなんだとか・・・。
みなさんはどうでしたか? みたいな問い掛けをしているもんだから、コメント欄には参考にして欲しいという感じの書き込みもたくさんありました。
中にはお産は命がけなんだから、そんなことを話題にしないでというご意見もありましたが、パーティ気分が圧倒的で、あっという間に埋もれてしまうでしょう。

有名人じゃなくてもなんでも報告する世の中になっているので、制御不能な状態。
更には、本来ならば命がけで、まずは子どもの無事を祈るはずの親側でさえ「楽しい」ことが良いことだとなってしまっている状態なので、多分、私が琴子を出産したときよりも軽く扱われているとおもう、胎盤も産む場所も。
医療従事者の方達は安全確保が大変だと言ってくれていても、自宅で産みましたーな報告がこうも軽々しくされてしまうと、「いざとなったら病院へ」が増えるばかりで、病院外で働く助産師の方達(&関わるメディアや某資格の所有者も加えて)の指導が問題だとおもえてならない。


いつだったか、このブログに産科医の方が
胎盤を食べるのはおりものをご飯にかけて食べるようなもの
というようなことを仰ってましたが(書き込んでくださったコメントをみつけられない)、本当ですよ、良い解釈だけで切り取らず、カニバリズムだということも考えてみて欲しいです。

って、無理だろうなぁ、あのような方は「常に話題(ブーム)を作ってしまう自分」っていうのにうっとりしているのだから、視野が広いようでいて、狭い。

助産師になりたい人にこれで良いのだろうか?

助産師になりたい人たちはどんなところで勉強しているのだろうか?
とおもって調べると、東京医療保健大学のところで紹介されている実習施設をみて、殆どが助産所じゃないか! とびっくりしました。

これで良いのだろうか? とおもうばかりです。

遅かった私が悪いと反省中

昨年、某医療系の大学で、助産師の教育に代替医療、それもホメオパシーが入っているという情報をいただいていて、その事実をダウンロードしてありますが、その某大学、年度共になのか、内容が変わっているため、公開できなくなってしまいました。
そこでは多くの助産所にも提携していて、助産師になろうという方達に向けて、助産所での経験値を多く与え、尚かつ、代替医療についても教育があるということ、私も情報くださった方同様、驚きました。
以前より、助産師になるための教育に問題があるのではないか? と私は訴えているつもりですが、本当にそういうものがあるのだとおもえることで、病院で勤務することよりも他を優先されているような事実は残念でなりません。

去年までは何かが間違ってしまっていて、もうそういうことはやりませんからと気付きがあっての変更なのか、隠し事になってしまったのか・・・気になってなりません。

もっときちんと早く記事にすることができていれば、リンクもファイルも紹介できたのだと反省。
ここのところ、ブログ放置で自分がきつい。
せっかく情報くださった●さんにも申し訳なくおもっております。
私の中ではきちんと記録はしてあるのですが、活かせず、すみませんでした。