1リットルの涙
今日まで、毎回とはいかなかったけど、ドラマの再放送を見ていました。
見る度に沢山泣いてしまい、そして、とっても考えさせられるドラマでした。
主人公に自分を、主人公の母親に自分を、家族に自分を、恋人に自分を、友達に自分を…どの立場になって考えてみても、ただ涙が流れるばかり。
ドラマの中、『わたし、結婚できる?』という言葉にうちのめされた。
最終回、最後に亡くなってしまった娘へ綴った母親の言葉が流れた。
もう号泣。
ひたすら号泣。
天国での暮らしを想い、近くにいると信じて語りかけて、そして会いたいと、笑顔を見たいと願う気持ち。
私は娘の笑顔を見ることは一度もなかったけど、娘の笑顔を見たい、会いたい。
もっと抱っこしたかった。
ドラマを見ていた私の中で、自分の気持ちがどんどんと膨れて、ドラマの声と自分の内なる声が重なってしまって、辛さが増していくばかりだった。
凄いとおもう。
著者の木藤亜也さんは凄い人間だとおもう。
こんな凄い人がいる天国に、こんな凄い人と琴子も一緒にいるんだっておもうと、ただ悲しいだけでも寂しいだけでもなくなる。
『沢山の花に囲まれて眠りたい』−琴子もそう願っていたかな?
沢山の花を棺に入れてあげたけど、気に入ってくれたかな?
答えは聞こえてこないけど、近くにいるって信じている。
切ない音色
暑くなりました。
まだ関東は梅雨明け宣言はされていないけど、かなり暑くなりました。
昨日、何気なく覗いたお店で『風鈴に絵を描きましょう! 1個500円』とあったので、リンズにやらせてみた。
絵ともいえない絵を描いて、帰宅後、早速軒下に吊るした。
昨晩はあまり鳴らなかったのだけど、今、風が誘って風鈴が鳴る。
ちょっと鈍い音なのだけど、よく鳴る。
琴子が遊んでいるかのようによく鳴っていて、切ない。
琴子が天使の羽を羽ばたかせながら、こっちだよ、こっちだよって教えてくれているような気がする。
8月は辛いです。
そろそろ8月です。
琴子がお腹にいた8月は冷夏でした。
琴子は元気に動いていて、私たちはとっても楽しかった。
とっても楽しかった8月だったのに、今では8月はその思い出が寂しくさせたりします。
今年はお盆にお墓参りに行こうかなとか、やっぱり命日に行きたいかなとか、夫婦で泣かないで話しているけど、生きている琴子を抱いたことがないし、泣いた琴子をあやしたことがないし、おっぱいもとめることしか出来ませんでした。
妹のリンズが描いた風鈴を気に入ったのかな?
ずっとずっと鳴っている。
お彼岸
もう数日前になってしまうのだけど、琴子の眠る墓前へ…
冬の間にはなかなか行けないので、毎年、春が待ち遠しくなる。
琴子に会えるっていうのはなかなか実感し難いことなのだけど、「来ることが出来た」という自分の中での達成感・満足感があるのか、ホッとする。
お墓もしばらく行けずにいれば、冬でも草はいくらか茂り、それなりに時間をかけて、やりがいのある掃除をする。
今年のお彼岸は義両親も一緒に行くことになった。
お墓に植えてある樹木の『サルスベリ』の枝を落とす必要が出たからだ。
正直、琴子のことではあまり良い感情を抱けないままの義両親と同行することには抵抗感があったのだけど、琴子の眠る地を綺麗にするということで、嫌な思い出には慣れない蓋をすることにした。
といっても、車は別だから、まだマシなんだけど…
お墓について、色々と作業をしていたら、ふとしたときに義父が
「生きていたらいくつなんだ?」
と言った。
祖父なんだから、それくらいまだ覚えていろよって言いたい気持ちもあったけど、ま、そりゃ無理だな、義父は『闇に葬る』発言の人だったから。
「生きていたら、4歳になりますね」
そう、生きていたら4歳。
私は『死んだ子供の年を数える』から、今年の8月には琴子は4歳になる。
琴子の年を聞いてきたけど、それ以上に話を続けるつもりもないみたいだし、でもなんとなく切ないから、
「琴子が生きていたら、リンズが生まれていたかはわからないし、そう考えると不思議なんですよね」
と言ってみた。
何も期待していたわけではないし、期待しなかった通りに、そのまま義父は何も言わなかった。
悲しそうでもなんともない、ただ聞いただけという感じだった。
想像したくはないけど、もしもリンズが死んでしまったら、義父は狂ってしまうだろう。
こんな穏やかなお墓参りは出来ないだろう。
琴子のお墓にはチューリップの可愛い花束を供えた。
菊も嫌いじゃないけど、やっぱり可愛らしい花をあげたい。
天国にはもっと可愛い花が咲いているだろうし、どんな花でも喜んでくれるってわかっているけど、選ぶときに、買うときに、私がなんとなく嬉しい。
琴子の墓前に供えたお饅頭とおにぎりをリンズが食べたがって、お参りが終わるまでカラスに狙われないようにと、一生懸命になっていた。
その姿を見て、義両親は「可愛いねー」と嬉しそうだった。
琴子が生きていれば、3歳半にもなる琴子が生きていれば、きっともっと「可愛いね」「面白いね」の声が響いていたのだろう。
そう想像してグスンとしてしまう今を、決して不幸だとはおもわない。
私なりに幸せな日々を頂いていると感謝している。
でも、寂しさや悲しさは抜け切らない。
お彼岸にお墓参りに行き、ご先祖様たちにご挨拶をして、その中で
「琴子がお世話になっています」
とお礼を言う。
いつも家に一緒にいるとおもいながらも、琴子の墓前では
「また来たよ」
と言う。
我が家はずっとこのままなんだろうと感じる。
今度はいつ行けるのだろうか。
初夏の頃かな。
琴子の大きさ
今日、子供たちの集まる場所で、2003年の6月に生まれた子供と出会った。
男児なので、女児とどのくらいの差があるのかはわからないし、男女問わず、個体差は当たり前にあるわけだから、その子が2003年の8月に生まれた琴子とどのくらい近いのかさえもわからないけど、私は琴子の成長を感じるばかりだった。
こんなにも大きくなっているんだなぁ、こんなに色々なことを理解して、そしてそして…
2003年が遠くて、そして近くてたまらない。
神様は時折、こうやって私に琴子の成長を教えてくれているのだなって、感謝感謝。
神様、またそのうち、琴子の成長を教えてください。
また会える日まで、琴子のことを宜しくお願いします。
『オーラの泉』の新年会
ながら見だったので、ちょっと集中しきれなかったのだが、『オーラの泉』の新年会特別番組を堪能した。(やっぱり内容からいって、この番組はゴールデンタイムを避けてもらいたい! 集中して見たい!!!)
綾戸智絵さんの息子さんとのお話、以前に出演された際の内容でも十分に感動できたのだけど、今回も心新たに感動できた。
私もいつか、琴子と再会できるかな、来世では親子になれるのかな、恋人かな、現世では無理でも、またいつか一緒に生きられるかなって、私もいつか、また琴子を迎えにいきたいって、見ているうちに、どんどんと涙が溢れてきた。
悲しいから流れる涙ではなく、期待に胸膨らませたような、まだその時を迎えていないのに、先に感極めての涙とでもいうかなんというか…
『ありがとう』の力も信じている私としては、他にも感動できる話はあった(特に第二部のゲストの方)。
でも、綾戸さんのお話が一番自分に重なるような気がして、心に一番残っている。
生まれ変わってから琴子に出会うとき、江原さんのような人がいなければ私には気が付くことが出来ないかもしれないけど、それでも良いから、琴子ともう一度一緒に生きたい。
来世では“誕生死”という別れではなく、一緒に歌うとか、一緒に笑うとか、一緒に怒るとか、一緒に悲しむとか、一緒に一緒に一緒にと、欲が尽きないのだけど、一緒に生きたいな。