どこで産むかということは…
ちょっと過激な表現かもしれないけど、どこで産むかは、どこで死ぬかを選択していることと、同じなのかもしれない。
誰が…自分(母親)と、子供が。
最近、「助産院を否定している」と、そうおもっているばかりの人が大勢いるのだろうなぁと、今更に感じることがあったので、ちょっと深く深く考えてみた。
そうすると、自分がリンズを妊娠して、旦那と産む場所を選ぶ時には『とにかくNICUがあること』『すぐに帝王切開ができること(当時は予定帝王切開も考えていたし、経膣だとしてもと、考えていた)』を一番として、その条件から更に、家から近いところとなり、県内では中央に位置する、総合病院を選択した。
リンズがNICUを必要とするかなんてわからない。
経膣分娩となったとして、そのままスルッと生まれるかもしれない。
そして、そんな保証はどこにもない。
なにより、この子(リンズ)は逆子じゃないかもしれない。
それでもなんでも、もう子供が死んでしまうのは嫌だ、死ぬ可能性をなるべく低くしたいと、ただそれだけだった。
時折、「琴子の母さんはどこで産めと言うの?」と聞いてくる人がいる。
病院だって危険なことはたくさんある。
世の中の医療問題の大半が、大小問わず、病院でのこと。
だから、病院が必ずしも安全で信頼度が高いなんてことは言えない。
そういう意見から助産院を選ぼうとしている人にとって、私の意見は白黒つけない、曖昧なものに感じるかもしれない。
私には人の人生を意図して左右することなんて出来ないし、したくない。
ただ、自分が当時欲しかった情報の一つが、自分自身の話なのだ。
色々な角度の情報を知り、その上で決めたかった。
最近知り合った女性で、第2子は自宅で産みたいという方がいる。
その方には琴子の話、裁判の話をした。
黙って聞いていてくれた。
その上でも彼女は自宅を選ぶかもしれない。
私は反対する気持ちはない。
それがよく考えて出した彼女の答えならば、私にはこれ以上言うことはないし、彼女と子供の無事を祈るだけ。
どこで産もうかを悩む場合は、悩みを「どこで死ぬのなら納得いくか」に置き換えればどうだろう。
信頼出来る医師・助産師との出会いは必須だし、設備はどうだろう。
何もないからこそ良いとおもわれる場合、もしもそこで子供が死んでしまったとして、後に「設備さえ整っていれば、子供は生きていたかもしれない」という悔いを抱かずにいられるのか。
それが最善を尽くしたと、心の底からそうおもえるのか。
病院を選択する場合も、悲しいお産の体験者の方の中には、
「医療事故のリピーター医師だとは知らなかった」
と、情報の偏りがあることを悔やんでいる方もいる。
意外と、「本当は…」と言いたいことがあっても、『この人は無事に産めるのかも知れないし』と、言うことを遠慮してしまう人が多いらしい。
『私は信頼しているのに!』
と、怒られるのがいやだという人の気持ちもわかる。
だから、産む場所選びって難しい。