ロシアンルーレット、その銃口は誰に?

助産院や自宅出産を選択して母子共に無事だった方は、「覚悟していました」って語るのはよくあることです。私も琴子が生きていたら、そういうことを言っていたのだろうなぁと、自分に嫌悪感を抱きつつ、子供の死を知らない方を幸福な方だと感じるようにも努めています。
妊娠してから何事もなく臨月を迎えて産めるとおもっていた妊娠生活の中で、突如として異常を知る方もいるし、最初から自分の妊娠と出産にはリスクが伴うと覚悟をして挑まれる方もいます。そういう方たちと一緒に少しでも無事に出産が終えられるように、リスクを軽減出来るようにと尽力くださる医師や助産師(この場合は勤務助産師と断定するべきでしょうね)、看護師の方たちがいてくださって、結果が出る−そのような場合を「成功」とか、賭けのように表現することには私は全く違和感も反論も抱かないです。でも、自宅出産や助産院を選択することを賭けのように自ら言うのって、「成功しました」みたいに言うのには凄く違和感を感じますし、疑問も抱きます。

分娩場所選びの問題の際に、「私は子供や自分自身の生命の結果に対して覚悟していました、覚悟できていました」って宣言するのって、ロシアンルーレットで遊びました、引き金は自分で引きましたが、銃口は子供の頭にも突けていましたってことにしか私には聞こえない。だって、私がそれを琴子にしてしまっていたのだから。私が助産院で産むと決めたとき、琴子がそれを選んだって言う人いるけど、選んでいないよ。私が選んだんだよ。間違った情報しか得られなかったのも事実だし、助産師に騙されたのも事実だけど、それでも私がその引き金を引いたんだ。そして、その銃口は琴子にだけ向けられてしまっていた。でも琴子に銃口が突きつけられていたなんて、私は知らなかった。そういう私が馬鹿なだけだったということも認めるけど、真実、覚悟なんて出来ていなかった。だから、琴子が死んだことに違和感が生じたし、疑問も感じた。
「私はあなたとは違う、私はあなたような軽い覚悟じゃない」って言う方もいるでしょうね、何処かには。でもそのあなたの腕のお子さんは生きていらっしゃることが多い。それはそれでいいですよ、結果は子供が生きてくれているのだから。だけどね、どうしたって助産院や自宅出産(下手すりゃ無介助分娩)を選ぶのは「ロシアンルーレット」なんですよ。上のお子さんがいて面倒みられないとか、そういう事情もあるし、そういうことは行政含めて改善が必要な問題ですから、それはどんどんと意見してくべきだし。でも、簡単に「覚悟していました」なんて言わないで欲しい。
例えて言うなら『自慰行為』
当時はタイトルだけで叩かれました。でも言い換える必要性をちっとも感じません。ちなみに、今は助産院や自宅出産の問題を考えている日々の中で改善を感じることがあまりにも少なくて、存在、存続するのならば徹底して安全管理に力を入れ、いまだにホメオパシーを手放せないような助産師が何故存在許されるのか等等の問題を助産師自らが自浄していくことが出来ないことにも疑問を感じていますから、この頃よりも違う私もいますけどね。

自分が上手くいったことでお友達に薦めるってことは、「ロシアンルーレットしてみなよ!」って言っていることでして、その銃口をどこに向けているのかをきちんと説明してあげてください。