奇跡が好きな人たちが避ける「稀なこと」の結末

先日の当ブログ、「自宅出産でお子さんを亡くされたお母さんからのメッセージ」にくださったsuzanさんからのコメントです。

「めったにないことなんでしょう?」という声が聞こえるようです。
りかさんの、この血を吐くような叫びを
自分にも起きるかもしれないこと、として聞いてくれる人が
いったいどれだけあるでしょうか。
特に、すでに自宅出産にあこがれをもっていろいろ調べたりしている方々、
たぶん、自分に都合のいい情報しか目にはいらないでしょう。
「たとえ何かあってもそれは母親である自分の自己責任、自分で選んだことだし」という声も聞こえそうです。
実際に、病院以外での分娩でお子さんをなくしたあとで
果たして同じことが堂々と言えるかどうか?
むしろ、あのとき自分がああいったから、という気持ちに責められて
赤ちゃんが亡くなったことを正面から受け止められない、表立って悲しめない、
何が問題だったかをまっとうに考えることができない状態になってしまいそうです。
自宅出産をそそのかした人間(助産師だけとは言いません)の言ったこと教えてくれたことに、
何か問題があっても指摘できない、だって自分が選んだから。
いいえ違います。
たとえ何をどう準備しようと、病院以外の分娩には大きな危険が伴うことを、
はっきり言ってくれないなら、アドバイザーはうそをついたのと同じです。
何かあったらいつなんどきでもすぐに受け入れてくれる病院、
手術もでき小児科もNICUも24時間受け入れ可能な施設の整った病院が、
あたなのお産を保証してくれない限り、病院以外の分娩はとても危険だし、
「今すぐに病院に搬送しなくては」という正確な判断ができる医療者がいない場合には、
いくら搬送先の病院が決まっていてもダメです。

ここにこういうことをかきつらねても、
「すてきな自宅分娩」に頭をのっとられている方々には
たぶん、全く伝わらないでしょう。
「せっかくやろうとしていることにネガティブなことを言わないでください」という声も
まさに今、聞こえてきそうな気がします。

suzanさん、ありがとうございます。

りかさんのお話からのご意見ですが、私自身の気持ちも綴らせてください。
suzanさんが仰ってくださっていることは、事故にあった直後にはなかなか至れないものがあったことを私は実感しています。最初から「何故こうなってしまったのか」という疑問があるのですが、「何が悪かったのか?」という感情が「自分が悪かった」というように聞こえていたんだと思うんです。だから、しばらくは助産師に責任を感じるというより、「自分は一体、何を選んだのだ?」と自問自答が繰り返されていたんだと思うんです。そこに都合良く助産師の言い訳が入ったりしますから、「やっぱり私が悪いのか?」と思うばかりです。
琴子が死んでしまった晩に、遠方から駆けつけてくれた私の実父だけが、「お前たちは助産師に騙されたんだ!」と言ってくれたのに、私は「助産師さんは悪くない」って思っていたし、父にそう言った記憶もあります。バカそのものです。


どこで産もうと、選ぶのはどうしても母親自身ですし、今の日本では選択肢に開業助産師だけでの分娩が存在してしまっているから。私達の話を聞いても、「どうせ危険なのは稀なことで、被害にあったからっていつまでもうるさく騒いでいるだけだ、上手くいった人への僻みだ」としか思えない方はいると思いますよ。当時の私は今以上に馬鹿でどうしようもなく愚かな思考回路で、そして胎児や母体のためではなく、自分の思想優先している人たちに影響うけちゃうただの知ったかぶりでしたから、当時の私がこういうお話を聞いても、きっと「どうせ危険なのは稀なことで、被害にあったからっていつまでもうるさく騒いでいるだけだ、上手くいった人への僻みだ」と思ったでしょう。そして、子供が死んで、やっと気が付くのです。

suzanさん、私にもいつも、
「せっかくやろうとしていることにネガティブなことを言わないでください」という声
が向けられていると感じます。
でも、反対側から「そう言って誤魔化させないで!」という声も聞こえてきていると感じています。

自然分娩、自宅出産、助産院が好きな方たちは「奇跡」という言葉や事例を好みます。それならば、助産院や自宅出産で起こる事故を「稀なこと」といって片付けたり、闇に葬ろうとしたり、蓋をしようとしたりというのはおかしくないですか?
赤ちゃんが亡くなったことを受け止めるとき、「稀なこと」とおもって片付けようとしていたことをどう思うか。都合良いことは「奇跡」と言って求め合って、都合悪いことは「稀なこと」として拒否すれば叶うと思っていませんか? 
思わせていませんか?