生きたかったんだとおもう

琴子のことを考えていると、どうしてかな、どうして死んだのかなって漠然と考えていたりする。

あぁ、そうか…

今日は道を歩いていて、ふとおもった


「生きたかったから、死んだんだ」


って、何故かそうおもった。

生きたかったんなら死なないでしょうが…
もう一度、自分にそう問い掛ける。

でも、やっぱり今日はおもった ― 生きたかったからこそ、死んだんだって。

助産院や自宅出産で安全性を無視した、子の安全よりも親や助産師の思想を最優先されていたら、どんどんと死んじゃうかもしれないよ、生き難い人生を強いられるかもしれないよ、それは私かもしれないし、他の子かもしれない、とにかく、誰かがそうなっているんだから…やっぱりそうおもうと、琴子の生きたかったという気持ちを私が別の形で生かしていかないと、私は琴子のお母さんなんだから。

警鐘を鳴らしているのは琴子だ。
琴子や子供達が無事に生まれてくるために、琴子が警鐘を鳴らしているんだ。
小さい子供達が必死に鳴らしているんだ。

夏の終わりへ

早いなぁ、あれから6年。
でもまだまだ6年。
この先の人生の方が長く−でもこの日々にも慣れ、当たり前にもなったわけで、夏の終わりが近付くと、琴子の年を一つ増やす。

寂しいとか悲しいとかという感情にも色があって、きっと最初はどの感情も真っ黒で、嬉しいとおもえるようなことがすぐにあっても、黒という強い色にすぐに戻っていこうとする。
そういう日々が少しずつ薬にもなって、真っ黒にはならなくなって、色々な色がつくようになった。
悲しいけど、寂しいけど、色は明るいような気がしたり、こういう不思議な感情になるなんて、直後の私には想像が出来なかった。

琴子が死んだ直後に、同じように子供を亡くした人が一杯私を助けてくれた。
一人じゃないっておもえることが救いだった。

このブログでご意見くださる皆さんからも、たくさん救ってもらっています。
琴子がいない寂しさは、色々なことで埋めてもらっています。
有難うございます。

2008?

なかなか更新できなくて、なんだか自分が嫌なんですが、物理的な問題もあったりして…

こんな状態でも、ご覧くださっている方がいるということにひたすら感謝です。


まさに年末。

今年も残りわずかですね。

私はクリスマス前の賑わいからして、正直、苦手な感情があるんです。

2003年の年末年始があまりにも惨めで、その記憶からでしょうね。


琴子が亡くなった直後、数日間私の家にいてくれた実母がテレビを点けると、どうしてテレビの中では誰も泣いていないのかが分からなくて、テレビをすぐに消してもらいました。

そんなことを何遍も繰り返し、段々と、琴子が死んだことは世間では痛くも痒くもない出来事だと痛感し、自分もそうであったわけですから、個人的に誰かを責めるという気持ちではなく、小さい命は本当に小さいままなのだと泣きました。


毎年、年賀状はそれなりに楽しみにしていました。

勿論、琴子が死んだ年は喪中の挨拶を出しました。

それを受けて、連絡をくれる方も数名いてくれましたが、喪中の挨拶を受けても尚、年賀状を寄こす方もいました。

あぁ、胎児の死(このときはまだ戸籍に載っていません)は人の死ではないのだなと、悲しくて堪らなかったです。


とにかく年末年始の賑わいは苦しかったです。

以来、年末年始こそ、日常のままでいようとしています。

本当に辛かったから、今でもあのときの私がどこかにいるような気がして、せめて私だけでも、あのときの私自身に寄り添いたいとおもっているんでしょうね。

そして、今年もきっと大勢の天使ちゃんと天使ママ&パパが初めての年末年始を迎えているのだとおもうと、切なくて堪らなくなります。

悲しいよね、寂しいよね…一緒にお正月を迎えると期待ばかりしていたよね…



今年の私を振り返ると、このブログはあまり更新できなかったのですが、医療関係者の方たちのブログを中心として、時にはネットを彷徨っていました。

その中で、凄く心に残っているのが、中絶に対しての医師の方のご意見、

『させられる側の気持ちも考えて』

というような一文でした。

その通りですね、依頼する側はお金を払えば済むとおもっている方もいるとおもうのですが、中絶問題を女性の私たちがきちんと考えて、声に出していくべきなんだとおもいました。

病気などで仕方のない選択というのは別問題です。

私はこの医師の方のご意見を目にしたとき、私たちがいかに命を軽視しているかを考えさせられました。



テレビでは『たらい回し』という表現のまま、医療崩壊の報道が多くなりましたが、助産院や自宅出産に対しての警鐘は全く鳴らされないままで、不思議でなりません。

医療は叩きやすく、助産院は美化されたまま。

助産院や自宅って、そんなに安全なの?



よく、『第二子を自宅で出産』などと経歴に書くような方がいらっしゃいますが、そういうのもやめて欲しい。

『昔は自宅で産むのが当たり前だった』と言う方たちこそが、率先してその当たり前という行為を前面に出し、『特別な行為』だと騒いでいるように見えます。

どんな場所で産んだかを、どうしてわざわざ言うの?

当たり前だとおもっているのなら、言わないよね、普通は。



……あれもこれもと、本当はブログで書きたいなぁとおもっていることがまだまだあったのに、ご覧の有様、全く書けないことの方が多くて、自分が残念でなりません。

今年が終わるという日々の中、天使ママ&パパが少しでも心安らぐことを祈るばかりです。

そして、年末年始はどうしてもマンパワーが不足しがちだとおもいますから、妊婦さんたちがこの年末年始に派手な行動を慎まれることも祈っております。

また、派手な行動を慎んでも、緊急事態に陥る可能性があるという覚悟も大事ですね。

残りわずかな今年、一人でも多くの方が無事にお産を済ませられますように祈っております。

年末年始も関係なく現場で働く医師、助産師、看護師の皆さん、有難うございます。


本当に、お産は子どもが無事で生まれてくれるのが一番の素晴らしいお産です。

子供の死は辛いです。

今の無事を当たり前におもわれず、どうかどうか、ご無事にご出産終えられますように…



なんだか相変わらずまとまりのない私ではありますが、今年も一年、皆さんには大変お世話になりました。

今年最後は今日となるとおもいます。

来年も宜しくお願いします。


そして、天使ちゃんたち、今年も一年、琴子と仲良くしてくれて有難う!

天国は寒くないかな?

来年も、琴子と仲良くしてね。






5歳と、5年と

昨日、琴子は天国で5歳になりました。

琴子の写真を5年経った気持ちで見ると、そこにはリンズやダンジの顔が重なり、姉弟は似ているのは当たり前なのだけど、琴子だけがおいてけぼりのような写真なのに、色褪せることのない成長も感じます。

この5年は私の人生の中で、ずっとずっと大事な時間。


琴子の力は衰えを知らず―

今夏はどんなプレゼントがあるのかな? と楽しみにしていたら、なんと!

テレビの中に、琴子を戸籍に載せてくれた立役者、あの裁判官がぁ!!!

ある事件の裁判官となられていたそうで、報道で久々にお顔を拝ませていただきました!

琴子の裁判では、途中で裁判官が変わりました。

そのことで、少し空気も変わりました。

それまでも『勝訴的和解』の流れではあったのだけど、逆に最初からその流れだったために、不満もありました。

裁判官が変わるかもしれない―その予測を前にして、弁護士さんは有利が不利になることもあると、ちょっと警戒していましたが、私たち夫婦はそこらへんは経験がないので、変わったらどうなるのだろうかと、また始めからやり直すこともあるのかとおもうばかりだったのですが、後任となった裁判官は前任の方よりも核に触れてくれるような感じがあって、半分以上は前任の方との裁判だったのだけど、後任の裁判官だからこそ、戸籍に載せることを汲んでくれたりしたとおもっています。

だから、裁判官、弁護士さんは琴子を戸籍に載せてくれた人たちであって、弁護士さんには節目にご挨拶を送ったりは出来るけど、裁判官とはよほどのご縁がない限りは会うこともない方だとおもっていたので、テレビで一方的にとはいえ、とっても嬉しかったです!

それも、琴子の誕生日の前日に見て、今日も見ました!

事件があるから裁判官が映るわけで、世間的には喜ばしいことではないのだけど…


あと、昨日はリンズと近所を歩いていたら、ご近所さんに会い、偶然だというのに、薔薇の花を頂きました!

それも、「じゃ、5本」といきなり!!!

「うわー! 今日、丁度命日の家族がいて、嬉しいです!」

とおもわず言ったら、

「あら…薔薇は棘があるから、仏壇にはだめなのよ〜」

と言われましたが、琴子はお誕生日でもあるので、有り難く飾らして頂きました!!

1年に1本ずつ、琴子が咲かした薔薇なのかなってスマイル


琴子のお陰で、どん底も味わったけど、嬉しいことも沢山得られるようになりました。

琴子が5歳になったということは、あれから5年経ったということ。

まるでついさっき、琴子が死んだばかりのような気持ちもまだまだあるし、楽しさに満たされるときもある。

何処かで生きていると感じることもあるし、天国を遠くに想うこともある。

死んでしまった子供だけど、死んだままでも大事な子供。

でも、やはり生きて生まれることが出来るはずだったのなら、少しでも元気に生き易く生まれて欲しかったともおもう。


琴子が6歳になる来夏まで、私はまたどんなことを学ぶのだろうかと、琴子に感謝しながら8月31日を過ぎました。

琴子、お誕生日おめでとう!






天使ママさんとの出会い

琴子が死んでしまい、多くの天使ママさんとの出会いが私を救ってくれたのだけど、先日、その中の一人の天使ママさんと念願達成、会うことが出来ました。

琴子よりも数ヶ月お兄ちゃんの天使君。

ネットを彷徨っていたあの頃に、その天使君のママと知り合い、沢山助けてもらいました。

出会ってから実際に顔を見て会えるまで、約5年かかりましたが、もっと前から友人だったような、天使ママと会うときって、とっても不思議な感じがします。

天使君や琴子の話を当たり前のように出来て、その空間や時間が当たり前に得られるのは天使ママとしかもうなくて…だから、とっても嬉しいし、また、今でもお互いに苦しんでいる部分に触れ合うことが出来て、切ないのだけど、とにかく心地良いのです。

琴子の名前を当たり前に口に出来るのは、このブログ(ネット)と家族と天使ママとだけ。

狭いけど、大きい。


最近、昔からの友人が

「あの頃、なんて声を掛けてよいのかわからなかったから、何も言わないことを選択しちゃったことを恥じている」

というようなことを言ってくれました。

当時の私の複雑な心境はいくらか和らぎ、彼の苦しみも素直に受け入れられるようになったし、また、そうやって話してくれることがとっても嬉しかったです。





有難うございます

時々、このブログを読んでの感想を頂いております。

どんな内容でも、殆どの方が琴子のことを忘れないと書き添えてくださいます。

それが何よりも嬉しいことです。

「生きていて良かった!」

とおもえる瞬間そのものです。

琴子の亡骸を抱きながら、助産院から帰る車の中で

「このまま死のうよ」

と旦那に頼んだ私がそうおもうのですから、とても嬉しい瞬間なのです。


琴子や私だけじゃなく、小さいままに死んでしまった子供たち、特に戸籍に載せてもらえない子供たちの親には、

「早く忘れなさい」

とよく言われています。

私もよく言われました。

それは善意なのかもしれないけれども、実はとても厄介な善意でして、忘れられるわけない親の想いや切なさの全てを否定されているような心境になります。

でも、私にメールで励ましをくださる方や、このブログに書き込んでくださる方たちの

「琴子ちゃんは私の中で生きています」

という言葉を目にすると、琴子が誇らしげに笑っているような気がして、とっても嬉しくなります。


皆さんの中での琴子は笑っていますか?

会いたいなぁ。

皆さんの中にいる琴子にも会いたい。

助産院を選択したことで亡くなってしまったけれども、今は楽しそうにしていますか?


琴子を忘れないとくださる皆様に感謝しています。

有難うございます。






悲しいお産に…

ぐーたら産婦人科医さんが、

私の拙い体験からここでひとつお話をさせてください。

私はお産を終えた患者さんには『よくがんばったね。』などと声をかけて褒めてあげます。実際にはそれほどよいお産と思えないお産でもそのように言います。それは今後の育児に向けて自信をつけてもらいたい、大変な育児を乗り切って欲しいという願いからです。そんな私にある患者さんが次のように言われたことがあります。その方は一人目のお子さんを死産された方ですが(その時お産をとったのは私です。私が助けられなかったのです)、次のお産では帝王切開で無事お産をされました。その後も何度かお会いしたり、メールでお話を聞かせていただいているのですが、その方から『入院中、他のお母さんが先生方から、よくがんばったねと褒めれるのを聞くと悲しい気持ちになりました。』というような内容の話を聞かせていただきました。

死産などの悲しいお産を経験された方にとっては『自然分娩でお産をしたことをほめる』という習慣がこころを傷つけるということを知りました。

それ以来、私の分娩観は変りました。『自然分娩したこと、母乳で育てたこと』を、それ以外の形のお産を否定するがごとく、礼賛するというのは何かおかしい。当然そのとおりできればそれにこしたことはないのでしょうが、少なくとも医療人である我々はむしろ、悲しいお産をした方にこそ目を向けるべきではないかと思うようになりました。そういう点で、自然分娩、母乳礼賛を唱えるような医療人には疑問を持っているのですがいかがでしょうか。私の意見も偏っているのかもしれませんが、是非意見をお聞かせください。

というご意見をくださいました。

私の個人的な意見・感想なんですが、想うことがありましたので、この場にて返事を書かせてください。

決して天使ママさんたちの代弁としてとか、そういうことではなく、引用させていただくことはあるけれども、全くの私個人の意見です。


きっと、ぐーたら産婦人科医さんが救えなかったと嘆かれる天使ちゃん、そして天使ママさんは、ぐーたら産婦人科医さんが一生懸命救おうとしてくれたからこそ、メールでなり、その後も担当医であって欲しいと願っていたんだとおもいます。

私から言うのはおかしいかもしれないけれども、有難うございます。

ぐーたら産婦人科医さんだけじゃなく、赤ちゃん、お母さんを救おうと最善を尽くしてくださる医師の方たち、助産師の方たち、看護師の方たちには感謝しています。

そして、これからも赤ちゃんやお母さんが亡くならないように、少しでも生き易いようにと励んでくださる陰には、天使ちゃんや亡くなったお母さんたちへの想いがあるんだろうなぁと、以前にこのブログでも紹介させて頂きましたが、

産婦人科医はがんばってる。−死産を乗り越えること/ブログ主;haruさん

も思い出し、胸が一杯になりました。


お産が無事に終わった方に、

「おめでとう、よく頑張ったね」

って声を掛けられるのは、とてもとても当たり前のことだとおもいますし、また、それを辛くおもう天使ママさんの気持ちも、当然のものとおもいます。

そして、「おめでとう」が無事に生まれた赤ちゃんとお母さんだけのための言葉のような、その存在が悲しいとでも言いましょうか…だからといって、子供が死んだときに『おめでとう』とは言われたくはないのですが;;


仏教の説法の一つに亡児の亡骸を抱きながら、その子を生き返らせて欲しいとお釈迦様に頼む母親の願いがあります(ご存知の方も多いとおもいます)。

ある宗教学者が、その解釈を自身の著書の中で披露されているのですが、

『死んだ子は死んだ子のままで愛していいんだよ』

というような一文があるんです。

当ブログでも以前にこの本を紹介させていただいているんですが、私は天使ママさん数名に、この本を熱く紹介しました。(コチラ

私はこの言葉に相当救われました。

私の親も誰も、こんなことを言ってはくれなかったですから。


私は医療の場で責任を持つ立場ではないからこそ、こんなことを願ってしまうのかもしれませんが、私は母親学級などで、死産や医療を必要とするお産についての具体的な説明をして欲しいとおもっています。

死産などについては、経験のある方で受けてくださる方がいれば、これから出産をする方に向けて、直接お話をしてもらっても良いのではとおもっています。

それは、決して乱暴な気持ちからではなく、

『命は奇跡の結晶』

っていうことを、ただ幸せを夢見るだけの気持ちの中で想うのではなく、壮絶なまでの経験をしても、尚、その天使ちゃんの親であり続ける天使ママさんたちの気持ちをも含めて、奇跡を叶えることを想ってほしいからです。

そして、不安を煽ることだという声もあるとおもいます。

ただ不安を煽るために話すわけではなく、だからこそ、そのお腹の中の命を大事にして欲しいという天使ママさんたちの気持ちを知ってもらえれば、不安を煽る行為にはならないとおもっています(同時に、それが容易いことともおもっていません)。

そして、悲しいお産になってしまった方には、上記の本や、誕生死の本を薦めて欲しいです。

少しでも早く、『一人じゃないよ、皆が一緒にいるよ!』っていうのを伝えて欲しいです。


母親学級では、搬送の問題や緊急帝王切開に対しての心構えなど、他にももっともっと、具体的に話して欲しいです。

帝王切開に対しては、臓器提供意思表示カードのように、「緊急時には切ってください!」と、先に意思表示がしておけるようなものがあればいいのにとおもっています。


自然分娩が素晴らしいというのは、私の中にはもうないものなんです。

勿論、これはぐーたら産婦人科医さんも同じだと存じていますが、過度な医療介入は論外です。

そして、母乳育児も、私は出来る人もいれば、出来ない人もいる。

母乳育児が出来ることは理想的なことだとはおもうけれども、母乳育児が出来るからって、肩で風切ることではないし、出来ないからって敗北ではない。

お産だって、自然分娩が理想的だとしても、出来ないからって敗北ではない。

でも、帝王切開した方たちの中には、そのお産を受け入れ難くおもっている方も少なくないと知り、琴子を亡くした後、逆にショックでした。

『子供が生きているのに、何で?』

って。


ある助産師の方と、助産院での出産の危険性を話したことがあります。

その方は、関東の有名な某総合病院の産科に勤めていたこともあり、悲しいお産も知っている方です。

今は勤務を辞めています。

その方の周囲には、病院でのお産を選択した結果、帝王切開になってしまったことを嘆いている方が多くいるそうです。

私は『子供が生きているのに?』とおもわず聞いたのですが、

「琴母さんはお産の地獄を見たからよ」

と言われました。

地獄を見ていない方にとっては、私たちの話は『噂』くらいにしかおもわれない、感じられない、それこそ、昔話に似たようなものなのかもしれません。

私自身、あのまま琴子が無事に生まれていたら、自然分娩や母乳育児を礼賛していたとおもいます。

そうやって、帝王切開をした方たちや、お子さんを亡くした方や、母乳育児が理想的だと知っていても出来ないと悩んでいる方たちを傷付けていたんだとおもいます。


自然分娩で産んだ方に対してだけ、母乳で育てた方に対してだけしかないような褒め言葉・風潮が悲しいですよね。

私にとって、帝王切開で子供を出産したという方は、眩しいくらいに素晴らしい存在です。

また、お腹の中の赤ちゃんが亡くなってしまい、それから赤ちゃんを出産するというお産は、どのお産よりも素晴らしい母性愛に満ちたお産だとおもっています。

中には、子宮も一緒にお空に還した方もいます。

どんなに願っても、もう自分では子供を産めないという辛さと共に、亡くなった赤ちゃんを愛し続けている方もいます。

私は天使ママさんたちに出会って、琴子のことだけじゃなく、『自然分娩にこだわる』必要性が見出せなくなりました。

悲しいお産を産科医療の中心にしてくれとまでは言いませんが、亡くなってしまった命を無視したような話は受け入れ難いです。



なんか、ついついあの想いもこの想いも…と、横から上から下からと、全く話がまとまりません…とにかく、かなり的を射ていないことをお詫びします。