「胞衣について」を読んで

先日、うさぎ林檎さんから教えていただいた資料
胞衣について(琉球大学教授;山里純一氏著)
を読みました。
とても参考になりました。
うさぎ林檎さん、有難うございます。
(私信;引き続き、例の本の読破を目指して奮闘しております!)

『昔は栄養補給のために胎盤を食べていた』という言葉がどこから発せられ、野生動物の母親だって食べていると、何故か野生動物が勝手に盾とされているような状態もありますが、どうしても私にはカニバリズムとしかおもえません。
しかし、ネットで自慢話をするかのように、
「家族で楽しく食べました!」
みたいに書かれていたりすると、この胎盤を食べるという行為は広まっていく可能性のほうが高くさえ感じられるのです。

胎盤を食べるという行為は、もしも日本において事実昔にあったとしても、それはかなり稀な行為であったのではないでしょうか。
「昔の人は栄養補給のために食べていた」
ということからより、動物、それも野生動物が食べるんだからというのが発想の原点にあるように感じるだけで、自然に帰ろうとか、お産は女性が一人でも出来る事(だったら助産師は自主的に廃業しなくちゃだとおもうんですけどね)だと言う人たちにとって、次なる話題としては最高の素材だったのではないかとおもえました。
色々なことが無事になってくると、感謝することも忘れ、
「次は何がある?」
「次は何したらいい?」
「次は何をさせてあげようか…」
と、欲望を満たしたいだけになってくるのではないだろうか。

そこには完全に“子供が無事に生まれてくれるように”という切なる願い、最優先されるべき欲望は“得られて当たり前のこと”とされてしまっていて、気が付くと、会話から消えているというより、意識から消え失せてしまっているのではないだろうか。

生まれたときから“栄養不足”に困ったことのない私たちの世代(私の幼少期にまだ少しはそういう話もあったけど、圧倒的に健康優良児が多かった)であるが故に、意識しないで育ってきた分、『あなたに今必要な栄養はこれなのよ!』と言われると、不足していたものに出会えたような気がしてしまうのだろうか。
「栄養を胎盤まで食べないとならなかった時代」
とはおもえず、
胎盤にだけ、必要な栄養が詰まっている」
と勘違いしてしまうのだろうか。

昔は食べていたということより、昔から胎盤(胞衣)の扱いはとっても慎重で、生まれたその子の人生を決めるくらいに恐れられていたということ。
多分、当時に「胎盤を食べる」と言ったら、かなり恐ろしい行為だとおもわれたのではないでしょうか。
この書の中の「はじめに」に記された一文、

しかし自宅分娩であった頃、胞衣の処理は生児の一生に重大な影響を及ぼすと信じられ、一定の儀礼が行われた

とあるのだが、その殆どが呪術的なことであった。
沖縄、日本のことだけではなく、世界的にみてのこと。
そして、大半が『人に踏まれるのを避けるために焼くか、埋める』ということで、読んでいてとても面白かった。

子供が夜泣きする子になったのは胞衣をきちんと埋めなかったからだとか、逆に人に踏まれることで、その子が強く育つという地域もあったりと、信仰心もしっかりとあった時代(事実、胞衣信仰というのがあるそうで)ならではの想いが感じられる。
易学に頼って埋める方位を決めるとか、“胎盤パーティ”なんて聞いたら、卒倒しちゃうでしょうね、“昔の人”は。
ただ、炙って乾燥させて粉末にして薬にしたとか、結核の薬として重宝されたというようなことも記されている書物があるそうで、“食した”というのはどうやらそういう説があるという程度に留まるらしく、これら薬用としてならば、しっかりとその煎じ方なども残っていて、事実としてあったといえるようです。

私は自分で胎盤を見たことがないので、レバーのようなだとか、そういう表現から想像するしかないのだけど、昔の方は子供が生まれた後に出てくる(生まれてくる)そのものをとっても怖く感じたのでしょう。
また、とっても尊んでいたのだと、“後産”という言葉からも感じられる。
排出ではなく、産むという扱い。
そこにはまだ魂が宿っていると感じたようで、だからこそ、地中の奥深くに埋めるようにしたのだろうし、流産や死産での埋葬と似たような扱い・感覚もあったようだ。

感想からちょっと脱線して…

ひぃたんさんが教えてくださった『歴代天皇のカルテ』も購入しました。
これは今、読んでいるところなんですので、読んだ上での感想はまだ書けないのですが、でも琴子の導きって面白いんですよ、ひぃたんさんからの書き込みを知る直前に、神職の方に胎盤を食べる行為はどうだろうかと聞いたメールに対して、
胎盤食=プラセンタの影響だと思うのですが
基本的にはカリバニズム的な行為だと思いますし
古代の日本では禁忌事項の一つだったような記憶があります
例えば古代天皇は皇子出生の際、排出され胎盤
「えな」とし血忌みの穢れであるとする一方
出生=生命力の権化ととらえ壷に封じて
人に踏まれないところに地中に埋めていたと思います
人に踏まれないところ=天皇として誰かに踏みつけられない
という意志が働いているのだとい思います

というお返事を頂いたばかりだったのです。
ので、ちょっと興奮!
で、更にプラセンタの影響というのも管理人のみ閲覧でお寄せくださったAさんのご意見の中に
サプリメントや製剤として市販されていますが、 ヒトのプラセンタ製剤を注射した方は献血が出来ないようだ』(プラセンタ、ヒト、献血で検索していただければたくさん出てくるということで、検索もしてみます)
プリオン病が伝播する可能性も無いわけではない、ということでしょうか
というのも頂きまして、これまた大興奮!
なんだか情報がどんどんと繋がっていく…完全に他力本願の窮みにいる母親の私ですが、琴子が私以上に勉強して、色々な方に聞いてくれているのだとおもいました。
ひぃたんさん、神職さん、管理人のみ閲覧でくださったAさんにも感謝です。

で、天皇の胞衣の扱いは『孝明天皇御胞衣埋納所』を見ても、小刀まで一緒に地中に埋めて、かなり慎重になされたということが分かります。
胞衣塚(えなづか)というのも存在し、日本の各所にあるということ(私が無知なだけでしたか…)。
公家、貴族は食べていなかったということは、栄養がある程度摂取出来ている状態であれば、食べるという発想には至らなかったのでしょうかね。

Aさんの教えてくださった内容で検索したところ、
厚生労働省ヒト胎盤エキス(プラセンタ)注射剤使用者の献血制限について
ヒト胎盤(プラセンタ)由来製剤の注射剤を使用された方への対応について日本赤十字社 兵庫県赤十字血液センター
プラセンタ注射したら献血ダメ
がありました。

他にも仙骨ショックを助産師会に、胎盤を食べることを厚労省に…聞きます。

胎盤を食べるという行為は、それを正当化しようとしている理由がどうやら眉唾もんで、私からすると、やっぱり助産院とか自宅出産の人寄せパンダ的なもののようにおもえてならないです。
ただ、病院でもやはり食べさせているところはあるようで…ここに張ろうか悩んだんですけど、あんまりにもノリが軽過ぎて、なんだか…って気がしちゃったので、情報提供くださったゆうひさんのコメントより、ご興味のある方は検索してみてください。
病院がすすめたわけではなくて本人の申し出で、らしいですが、すんなり通ったところ、また「血抜きされて出て来た」そうですので、はじめて食べさせた訳ではなさそうです…。

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本当ですね、手馴れた感じですよね。
それも、病院で出す献立の一部かとおもえるようなタイミングで…たまたまなんでしょうけど。
ゆうひさん、有難うございます。


あぁ、なんだか頭が混乱しますよ。

私は今まで勉強してきて、余計にカニバリズムだとおもうけど、その是非は有耶無耶になっていて、でもこういうことは、決して個人の自由では許されないとおもうんです。
極論ですが、流産や死産の埋葬と同じように扱っていた時代も昔です、その昔にじゃぁ、流産や死産で亡骸となってしまった亡児を食するという文化があったと誰かが仮説としてでも立てたら、どうおもいます?
野生動物は、それが肉食であれば、動物を追って捕らえ、生きている状態から食していきますよね。
野生動物も食べているっていうのは、私たち人間がそこに並ぶべきことなんでしょうか。
野生動物も服を着て、たまには生でお肉や魚を食べるっていうのなら、並ぶべき文化もあるでしょう(それを野生動物と呼ぶか?という突っ込みはおいといて…)。
“昔は〜”“野生動物は〜”という人たちがネットを使って情報を得たり流したり、人からお金を貰ったり車で移動したりテレビを観たり服を着てお洒落を楽しんだりetc.全然違うんですよ。
そしてそこに“昔はお産で沢山の母子が亡くなっていた”というのは何故、付け加えられないのか。



追伸;
他にもご意見くださった方にレスを書きたいとおもっております、また記事として改めることとなります。
すぐに返事を書けずにいますが、なるべく教えてくださるサイトや書籍には目を通したいと私なりに努めておりますので、ノロノロ更新とご報告でお恥ずかしいのですが、これからも宜しくお願いいたします。